予感(3)
「げ」
ヒトハはテーブルに放っていたスマホを拾い上げて、ぶるりと身震いをした。
パーティーの身支度で忙しくしている最中に、着信が入っている。しかもなんと、あのクルーウェルからである。いよいよというときに限って連絡を寄越すとは、彼は予知能力でも持っているのだろうか。
今すぐ折り返したところで墓穴を掘るに決まっている。ヒトハはひとまず、その着信を見ないことにした。少し遅くはなるが、明日の早い時間にでも返せばいい。まずは今夜を乗り越えること。それが何より重要なことなのだから。
誰もいない広い部屋で鏡の前に立ち、ヒトハは自分の姿を前にため息をもらした。質の良い衣装に身を包んでいるだけあって、黙っていればそれなりの見栄えである。深く鮮やかな青色のドレスの丈は長く、しかし程よく胸元を露出させている。髪はまとめ上げ、晒された両耳はドレスと同じ色の宝石をあしらった耳飾りが飾った。
夜のパーティーはこういうものだと聞いてはいたが、いつも制服で首元から足首まで隠している身としては落ち着かない衣装だ。それに、うっかり汚しでもしたら――考えるだけでもぞっとする。今日は一滴も酒を飲まないと心に誓い、ヒトハは最後の仕上げにドレス用のグローブを拾い上げた。
そのとき、背後からノック音が響いた。
「どうぞ」
静かに礼儀正しく入室した青年は、ヒトハの姿を見ると、眩しそうに目を細める。
「よく似合っていますよ」
「リオさんも」
ヒトハが照れながら言い返すと、リオは「ありがとうございます」と頬を赤らめた。ドレスコードに合わせた黒のタキシードだが、彼が着ると一段と華やかに見える。見劣りしないか不安だが、今日の衣装であれば、なんとか隣に立つのを許されるだろうか。
彼はふと、ヒトハの手に目を留めた。手首の先まで痛々しい怪我の痕が残った手だ。視線に気がついたヒトハは、ぱっと両手を胸に抱く。
「すみません。びっくりしましたよね」
「いえ。僕こそすみません、不躾な真似を……。父から聞いています。その怪我の痕を消すために、クルーウェル先生と魔法薬を作っていると」
考えてみれば当然のことである。彼は父親の仕事について回っているのだから、素材の仕入れも見ているし、ナイトレイブンカレッジに素材を送る理由だって知っているはずだ。
「……最近、自分でもよく分からなくなってきたんです」
ヒトハは両手をほどき、それを見下ろした。青いドレスの生地を背景に、傷痕はよく目立つ。
「私は本当に“元の姿に戻りたい”という理由だけで、先生に魔法薬を作ってもらっているのかなって」
もしかしたら、昨晩リオの気持ちを聞かせてもらったからかもしれない。だからこうして自分の中に隠していたものを、聞いて欲しいと思うのだろう。
「多分、私は二人で試行錯誤してる時間が好きなんです。だから少しずつ完成に近づくたびに寂しくなってしまって。終わらせないといけないのに、終わらないで欲しいと思ってしまう……」
最初は本当に辛くて、一刻も早く傷痕を治すために魔法薬を飲んでいた。だから週に一度、彼に会っていたのだ。でも今は、少し違う。見出してしまった感情は、きっと本来は抱くべきものではない。だから後ろめたくて、たまに辛い。
ヒトハは誤魔化すように笑った。
「ごめんなさい。先生にも教授にも失礼ですよね、こんな我儘。最近、こんなことで勝手にモヤモヤしちゃってて」
その話を黙って聞いていたリオは、静かに目を伏せた。ゆっくりと息を吐いて、その次の瞬間には、いつもの笑顔を浮かべる。
「ヒトハさんは、クルーウェル先生と過ごす時間を失いたくないんですね」
彼はヒトハの気持ちを的確に言い当てると、「僕は、おふたりの関係をよく知りませんが」と、とぼけたように続ける。
「いっそ正直に、全部伝えてみてはどうでしょう。ヒトハさんの気持ち、先生も分かってくれると思います。ちゃんと言葉にすれば……」
言葉を途切れさせる。リオはどこか遠くを見ていた。もう一度まばたきをしたとき、彼はヒトハの目を真っ直ぐに見据えて苦く笑った。
「いえ、僕が言えたことではないですね。最近、『ちゃんと話をすればよかった』と後悔したことがあったもので」
「リオさんも?」
「ええ。人と向き合うのって難しいですよね。僕はどうにも苦手で」
彼はせっかく整えた頭を掻き、困ったように言った。そして手を差し出して、にやりと笑う。
「今日も今から緊張してます。友人として、隣で応援してくれますか?」
ヒトハはその手に傷だらけの手を載せ、にっこりと笑みを返した。
「もちろん、全力で応援します! 今日は一緒に頑張りましょう!」
リオが言うには、今回のパーティーのホストは若い実業家なのだという。魔法士としての実力もあり、度々こうして人を集めては、同世代の魔法士たちとの交流の機会を設けている。リオは彼の名を知っているだけで、会ったことはないと言っていた。しかし見せてもらった招待状は魔法道具で、開くと会場の外観を立体で見せてくれる手の込みようである。やたらキラキラと鱗粉のようなものを舞わせるので、恐らく結構な派手好きだろう。あまり煌びやかな場所は得意ではないから、今から不安である。
パーティー会場は屋敷からさほど遠くはない静かな場所にあった。広い敷地は木々で覆われ、中央にどんと洗練された白い建物が立っている。フォレストの屋敷に比べれば、ずいぶんと現代的な建築物だ。
二人がそこに辿りついたのは、日が落ちきってからのことだった。
ゲストのために開かれた門は高く、それを潜りながら、ヒトハは空を見上げる。夜空に瞬く星の下を、箒で飛ぶ魔法士たちがちらほらと見えた。彼らの箒は夜間の飛行のためか、チカチカと光を放っている。ランタンか魔法の光かは分からないが、それは夜空に光跡を描き、流星のように流れていく。
リオは感心したように言った。
「箒で来る人もいるんですね」
「はぁ、その発想はなかったです……」
リオの言葉に、ヒトハも頷いた。ここへ来るのに当然のように車を使ってしまった。そっちのほうが楽な気がするけど……というのは箒で長距離飛行ができない魔法士が考えることである。彼らにとっては、こちらのほうが早いのかもしれない。
ぽっかりと口を開けて空を見上げていたヒトハは、突然ガクン、と足を捻った。
「いっ……!」
慌てて差し伸ばされた腕に縋り、足元を見やる。履き慣れないピンヒールではわずかな障害物でも躓いてしまう。邪魔な小石を爪先で蹴って、ヒトハはため息を吐いた。急な角度がついているせいで爪先もジワジワと痛くなってきた気がする。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。ちょっと小石を踏んだみたいで」
はらはらとしているリオに、ヒトハは笑って見せた。まだ何も始まってすらいないのに、靴ごときで挫けるわけにはいかなかった。
広い庭園を抜け、二人はやっとのことで会場に辿りついた。
会場は驚くほど広い。それは面積だけではなく、高さにも言えることだった。天井は首を思いっきり反らさなければ見渡すことはできず、ヒトハの目に入った範囲だけでも、いくつもの巨大なシャンデリアが天井を飾っている。クリスタルが惜しみなく使われたそれは、鏡のごとく磨きぬかれたフロアに輝きを落とし、会場中を明るく照らしていた。
若い魔法士の交流を目的としているというだけあって、会場には惜しみなく魔法が使われている。会場の隅で楽器は勝手に音楽を奏で、銀のトレーは宙を飛んで空のグラスを回収して回った。
ゲストは獣人属なども入り混じっていたが、みな揃ってヒトハより若いか同じくらいの見た目をした人たちである。
この会場にいる人たちすべてが魔法士なのだ。給仕人もどこかしらに杖をさしているから、彼らも例外ではないだろう。
「ヒトハさん」
リオの声に引き戻され、ヒトハはぱちぱちとまばたきをした。会場の光が目に眩しい。
「すみません。圧倒されちゃって……」
「いえ、想像以上ですよね」
彼は落ち着いた声で言って、腕を差し出す。一体なんだと顔を見上げれば、彼は「手を。今日だけ、いいですか?」と照れ臭そうに言った。よく周りを見渡せば、お手本はいくらでもいた。
(映画でしか見たことないや)
どうしてみんな当たり前のようにできるんだろう。やっぱり住む世界が違うのかもしれない。
ヒトハは手にしていたクラッチバックを持ち直した。そして遠慮がちにリオの腕に手を置き、導かれるように会場の中心へ向かったのだった。
レナード・フォレストがこの国の若い魔法士たちにどう思われているのか。それを知るのは容易いことだった。背中にチクチクとした嫌な視線を感じながら、ヒトハは会場を見渡すふりをして周囲を見やる。どうやら旗色はよろしくないらしい。聞こえないように囁かれる言葉は、決していいものではないだろう。
魔法士にとってのオーバーブロットとは、それだけ恐ろしいことなのだ。負の心を制御できなかった、無謀なまでの力を振るった、それによって誰かを殺す可能性があった。
その一方で、オーバーブロットは力の強い魔法士の象徴でもある。リオに向けられる目は、嫌悪というよりは畏怖に近かった。注目を寄せるのに誰も近寄ろうとしないことが、その証明だった。
ヒトハはちらりと隣を見上げた。
攻撃的な雰囲気があるわけでもない。一言でも話せば、みんな努力家で優しい彼のことを好きになってくれるはずだ。せめて彼のことを知ってもらえれば――
ヒトハの望みは、思ったよりも早く叶った。三人の男たちが彼に声をかけたのだ。
「ここに来たのは初めてですか?」
一人が親しげにリオに尋ねた。
「はい。初めて招待していただきました」
リオはそれに落ち着いた声で返し、緩やかに会話が始まる。互いの自己紹介から入り、そこから話はより深く掘り下げられていった。ヒトハはさっそく東方出身を言い当てられ、リオは世間をにぎわせた話題を持ちかけられる。彼らは終始にこやかであり、そして友好的だった。
(あれ?)
だからヒトハは、気がつくのが遅れてしまった。いつの間にか会話が分断されている。リオは二人の男を相手にしていて、もう一人に別の話題を持ちかけられたヒトハは、彼らの会話の内容がまるで分らない。
男がついにリオと距離を取ろうとしたとき、ヒトハは初めてはっきりと戸惑った顔を見せた。
「――あの」
会話を遮り、声を上げる。そしてリオの元に戻りたいと目線で示す。
普通であればそれで通じるところなのに、男はまるで
知らないふりをした。何事も無かったように持て余していた黄金色のシャンパングラスを差し出し、にこやかに笑う。
「気が利かず申し訳ありません。喉は渇いていませんか?」
「あ、えっと……?」
男とグラスを交互に見やり、ヒトハはおずおずとそれを受け取った。上手く笑えず、頬を引きつらせる。
(何か、おかしい……)
今すぐリオと合流すべきだ。このまま流されてしまうべきではない。しかし男の言葉は巧みで、ヒトハに考える隙を与えない。
強引に切り上げてもいいが、せっかくのリオのデビュー戦である。ヴィルにも言われていたように、悪目立ちはしたくなかった。何か穏便に切り上げられる口実さえあれば、切り抜けられるかもしれないのに。
そう思って、ヒトハが上の空で相槌を打っていたときだった。
ヒトハの手からやんわりとグラスが取り上げられた。
「申し訳ない。彼女は飲めないんだ」
聞こえるはずのない声が耳の後ろから聞こえ、ヒトハはひゅっと息を止めた。まるで申し訳なさなんて一切感じていないような、高圧的な声だ。
(なっ……)
グラスはそのまま元の持ち主に押し付けられた。同時にヒトハの腰に腕が回り、ぐっと横に引き寄せられる。不意を突かれてよろめいた体は、トンとその人の胸元に寄りかかった。他のゲストと変わらない黒いタキシード、白いシャツ。耳に冷たいサテンのラペルが触れたところで、ヒトハはようやく息を吹き返す。
顔を見上げる度胸はない。とはいえ、わざわざ確認するまでもなかった。声、息遣い、立ち方、所作のすべてに覚えがある。しかし香水だけはいつもと違う華やかさで、そういうところが、まさしく彼なのだった。
クルーウェルは軽い口調で男に問いかけた。
「飲まないのか?」
「あ、いや……」
「遠慮することはない」
静かで、優しく、穏やかな猫撫で声が、すかさず男の首根っこを掴む。この状態から逃げられる仔犬は、学園中を探してもレオナか茨の谷の生徒たちくらいのものだろう。
要するに彼は、この哀れな駄犬に「飲め」と強要しているのだ。
しかし男は狼狽えるばかりで、決してグラスに口をつけようとはしない。
「飲めないのか」
急激に温度が下がる。男の目に怯えが浮かび、釣られてヒトハは自然に肩を強張らせた。
クルーウェルは一拍の間を空けて、低く唸った。
「失せろ、野良犬が」
被害者であるはずのヒトハでさえ震え上がった。その明確な敵意を向けられているであろう男は、ひとたまりもないだろう。彼は「失礼しました」と怯えた声を絞り出し、逃げるようにその場を立ち去った。仲間二人を置いて、薄情なことである。
ヒトハといえば、がっちりと腰を抱かれて逃げることもできないまま、だらだらと冷や汗を流し続けていた。このままでは屋敷の女性たちから散々飾り立てられた顔が崩れてしまう。
静かに身じろぎを始めたヒトハだったが、クルーウェルはそれを素早く見咎めた。
「ステイ」
「……はい」
彼は脱走する気力を失ったヒトハを捕らえたまま、リオに向けて人差し指を立てた。
「駄犬、貴様はいつまで話し込んでいる」
ぐん、とリオの腕が引っ張られ、一瞬のうちに二人の前に引き出される。呆気にとられた残りの男たちをひと睨みで追い払うと、クルーウェルは厳しい声で言った。
「目を離すくらいなら連れて来るな」
「く、クルーウェル先生……?」
リオもまた、目を白黒とさせながらクルーウェルを見上げている。
この場所にいるはずのない人だ。なぜなら、ここはヒトハやリオと同年代の“若い魔法士が集うパーティー会場”だからである。
クルーウェルはパッとヒトハの腰を解放すると、今度は腕を掴んだ。
「この駄犬に話がある。その辺で適当に時間を潰していろ」
「え」
ヒトハはリオと同時に似たような声を上げた。たぶん、顔も似たような表情をしているのだろう。
「あ、ちょっ……」
有無を言わさず引っ張られ、ヒトハは慌てて両足を動かした。そこで初めて彼の顔を見て、体中から一気に血の気が引いていく。
(死んだ……)
ヒトハは数分後に訪れる未来を予想し、首だけでリオに振り返った。
会場にポツンと残された彼もまた、絶望の表情を浮かべていたのだった。
2023/11/10