予感(4)
 クルーウェルは一直線に会場の外を目指した。鏡面のごとく磨き抜かれたフロアを、学園のそれとまるで変わらない勢いで踏み鳴らす。
 会場にはゲストがひしめき合っていたが、通り道に困ることはなかった。この煌びやかさに似つかわしくない怒りを惜しみなく発している男を、顔面蒼白の女が速足に追いかけているのだから無理もないことである。
 クルーウェルは振り返りもせず、不機嫌に言った。

「あの野良犬が寄越したシャンパンは飲んでいないだろうな?」
「の、飲んでませんっ!」

 ヒトハは慣れないピンヒールを何とか操りながら言い返す。

「まだホストの方に挨拶もしてないのに」
「どうせ多忙だ。後でいい」
「リオさん、ひとりじゃ不安です」
「あいつは男だ。お前とは違う」

 クルーウェルはヒトハの必死の抵抗をものともしなかった。最初から言われることを知っていたかのように、早口に言葉を返してくる。
 彼は会場出口の扉を潜り、玄関ホールまで通り抜けようとしていた。その先は外で、夜の広大な庭園である。
 彼は一体どこまで行こうというのか。人が減ったのをいいことに、ヒトハは慌てて叫んだ。

「っていうか、先生! どうやってここに!?」
「旅先で偶然教授に会ってな。無理を言って手配してもらった。俺も知り合いの魔法士に連れて来てもらったことになっている」

 ヒトハは引っ張られながら「え!?」と叫ぶ。
 そんな偶然あるものだろうか。この広いツイステッドワンダーランドで、たまたま各地を旅している人に会うなんて。しかも、パーティーの話まで漏れてしまうなんて。
 あんな気まず思いをしながら隠し通したのに。何だか無性に悔しくなって、ヒトハは無意味と分かっていながら食い下がった。

「でっ……でも! ここは若い魔法士たちの集まりですよ!?」

 ほとんど八つ当たりである。
 クルーウェルはそれを聞くなり、素早く振り返った。

「俺は、まだ若い!!」

 カクン、とヒールが傾く。

「ひゃっ!?」

 立ち止まることに失敗したヒトハの体は、その場で一気に崩れ落ちた。
 クルーウェルの手から手首が抜け落ち、ヒトハは硬い地面の上でへたり込んだ。捻った足首が痛い。歩けないほどではなさそうだが、復帰にはしばらくかかりそうだった。

「いたたた……」

 ヒトハは足首をさすりながら呻いた。足首の痛みを意識すると、今度は指先と踵までもが痛みだしてきたような気がする。圧迫され続けていた指はズキズキとしてきたし、踵は擦れてヒリヒリと痛む。ここまで耐えていたのが不思議なくらいだった。「衣装は持って来なくていい」と言われ、自前の靴さえ用意していなかったことが、仇となったのだ。
 こんな場所で恥を晒し続けるわけにもいかず、ヒトハはなんとか立ち上がろうと地面に手をついた。そのとき、ちょうどクルーウェルがヒトハの前で片膝をついた。

「あっ!?」

 素早く膝の後ろに差し込まれた腕が、ぐんと持ち上がる。突然横抱きにされたヒトハは、たった二本の腕で支えられている不安定さに怯え、クルーウェルの肩にしがみつきながら叫んだ。

「おおお、おろしてください!」
「うるさい」
「歩けます! 歩けますってば!」
「じっとしていろ。落とすだろう」

 だから降ろせと言っているのだ。
 ヒトハは目尻に涙を滲ませ、かと言って飛び降りる勇気もなく、タキシードの肩をぐしゃぐしゃにしながら、しがみ付くことしかできなかった。
 クルーウェルは構わず歩き始める。

「靴選びと健康は無関係ではない」

 彼は突然言った。

「合わない靴は足を変形させ、歩行に影響を及ぼす。歩行が困難になれば運動量が減り、結果、体力の低下を招く。そればかりではなく、足の筋肉が弱るような病気になれば、いずれは腰痛、肩こり、頭痛などの全身に不調が現れるだろう」

 満開の花々がライトの中に浮かび上がる庭園。ロマンチックの限りをつくしたような風景の中で、淀みなく続く“靴と健康”の講義。
 ヒトハは従順な仔犬たちのように口を噤んだまま、それに耳を傾けていた。悲しきかな、口を挟めば痛い目を見ると体に染みついているのである。

「つまり」

 長々と続いた講義が結論に到達すると同時に、ぴたりと足も止まる。

「見た目ばかりを気にして合わない靴を履き続けるのは愚かなことだ。分かったな?」

 ヒトハが「は、はい……」と応えると、クルーウェルは剪定された植物たちの脇にベンチを見つけ、そこにヒトハを降ろした。そして片膝をつきながら、ヒトハの靴を脱がせる。擦れた踵が夜風に晒され、沁みるように痛んだ。
 彼は深く長いため息を落とした。

「俺が選んだなら、こうはならなかった」

 それは不貞腐れたような声だった。いつもと違う野晒しの指先が、ストッキング越しに赤い皮膚をなぞる。ヒトハは鋭い痛みに顔を歪めた。
 クルーウェルはヒトハの足を捕まえたまま、短い呪文を唱えた。淡い光と共に疼くような痛みが消え、足がスッと軽くなる。

「応急処置だ。この靴で無理はするな」

 彼は仏頂面のまま、ヒトハを見上げた。品定めをするように頭のてっぺんから足先まで視線を滑らせ、やはり不服そうに言ったのだった。

「随分な衣装だ。あの駄犬からか」

 ヒトハが頷くと、彼は「ふぅん」とつまらなさそうにしている。その上「なぜ青を選んだのか、まるで理解ができない」と、文句すら口にした。
 このままでは空気が重くなる一方である。ヒトハは恐々と口を開いた。

「あの、先生はどうしてここに……?」

 “ここへどうやって来たのか”は聞いたが、動機をまだ聞いていないのだ。
 ここは輝石の国である。賢者の島でもなければ、彼の故郷でもない。いくらモーリスの手助けがあろうと、ここへ来るにはとてつもない手間がかかるはずだ。

「それはお前が一番よく分かっているはずだが?」

 クルーウェルは目を細め、ヒトハを睨んだ。

「よくも俺に『父親が腰を怪我した』などと、くだらない嘘をついてくれたな?」

 ヒトハは目を丸くした。彼の目を見る限り、冗談でもないらしい。
 つまり、彼は嘘をつかれた怒りでここまで遥々追いかけて来たのである。なんというプライドの高さ。なんという執念。まさか、これほどまでに怒らせることになってしまったとは。

「ご、ごめんなさい……」

 考えてみれば、この嘘のために彼は不要な魔法薬を作ろうとしてくれたし、健康な父を心配してくれたのだ。その件に関しては言い訳のしようもないことで、ヒトハにできることは素直に謝ることだけだ。
 彼は深くため息をつき、ゆっくりとヒトハを問いただした。

「なぜそうまでして、こんな所に来た?」
「だ、だって……」

 じっとこちらを見上げる目から逃げるように、ヒトハはベンチの木目に目を移した。

「先生、リオさんのこと嫌いみたいだし。パーティーのこと言ったら、ダメって言うかなって……」

 ヒトハは思った。あの日リオの話で衝突していなければ、今日のことをクルーウェルに言っていたかもしれない。手紙の送り主のことも教えただろうし、ポムフィオーレの生徒たちではなく、彼に意見を聞いていただろう。

「でも私、リオさんの力になりたかったんです」

 ヒトハはポツリとこぼした。困難な道を歩んでいた彼が、あの冬以降、初めて頼ってくれたのだ。自分にできることをしたかった。
 それからヒトハは、言いにくそうに付け加えた。

「それに……島の外の魔法士の人たちにも、興味あったし……」
「興味?」

 クルーウェルはぴくりと眉を動かした。

「その結果があれか?」

 あれ、と言われた先ほどのことを思い出す。あのまま流されていたら……と思うと、ヒトハは何も言い返すことができない。

「俺は昨年末、お前に教えたな? ここにどういう層の魔法士がいるのか、まさか分からないわけではあるまい」

 彼は声を怒らせた。

「ナガツキ。お前は極東から来た普通の魔法士だ。素朴で善良な、ただの、ヒトハ・ナガツキだろう。わざわざあんな所に飛び込んで、自ら食いものにされようとでもいうのか?」

 クルーウェルは立ち上がり、ヒトハの肩を掴んだ。外気に晒された肩は冷たく、彼の熱い手から怒りが伝わってくるようだった。
 彼はどうしようもなく怒っていた。その怒りはヒトハの嘘に対するそれよりも、遥かに大きく思えた。

「あいつの力になりたいだと? 馬鹿げたことを! そのせいでお前が傷ついたらどうする!」

 荒いだ声に、ヒトハはビクリと肩を揺らした。
 彼の言いたいことは分かる。心配してくれていることも。他人から見れば、彼の主張はきっと正しい。
 でも、違う。違うのだ。彼は何も分かっていない・・・・・・・
 ヒトハは声を震わせた。

「私が、友人を助けたいと思うことは、馬鹿げたことですか……?」

 考えなかったわけではない。違う世界に踏み込んで、嫌なことがあるかもしれないと思っていた。けれど、それを承知でここにやって来たのだ。リスクと心を天秤にかけ、大切にしたいほうを選んだ。

「嘘をついたことは、ごめんなさい。心配させてしまったことも。一言でいいから先生に相談したらよかったと後悔しています」

 ヒトハは息を吸い込んだ。

「でも! 私にだって、私の力で守りたいものくらいあります!」

 吐き出した気持ちと同じだけ、ぼろぼろと涙は溢れた。
 リオを助けたいと思った。他の何を責められようとも、その気持ちだけは否定して欲しくはなかった。
 彼はいつも守ってくれる。危ないことから遠ざけてくれる。けれど、そればかりでは駄目だ。自分にも守りたいものがあり、助けたいものがある。それは自分自身の力を使わなければ意味がない。
 ちっぽけなプライドだと分かっている。でも、そのちっぽけなものを、自分だって持っている。それを分かって欲しいだけなのだ。
 人と向き合うは難しい。
 リオの言葉が急に頭に蘇ってきて、ヒトハは俯いた。吐き出して空っぽになってしまった心に、じわじわと後悔が満ちていく。我儘だと思われたかもしれない。嫌われたかもしれないと思うと、心が怯んだ。
 植物たちが夜風でさわさわと揺れる。
 ヒトハは俯いた顔を上げられないまま、彼の言葉を待った。

「ナガツキ」

 ヒトハの予想に反して、落ち着いた声が頭上から降ってくる。先ほどまでの強い口調ではない。そっと顔を上げると、クルーウェルは再び腰を折った。ベンチに座り込んだままのヒトハと目線を合わせ、その顔を覗き込む。彼の銀色の瞳からは怒りが消えていた。

「言い方が悪かった。俺は、他人のために無茶をするなと、言いたいんだ」

 クルーウェルは言い聞かせるように、ゆっくりと言った。おもむろに腕を伸ばし、ヒトハの目元を指先で拭う。すん、と鼻を啜ると、彼は眉を下げ、口元に微笑を浮かべた。

「どうすればお前は、お前の価値を受け入れてくれるんだ?」

 価値? ヒトハは首を傾げた。すると彼は、少し考えて問い直す。

「俺のことはどうでもいいのか?」
 ヒトハは慌てて首を振った。
「そんなこと、ないです……」
「それなら、俺を心配させるような真似はするな」

「いいな」と念を押され、ヒトハはぎこちなく頷いた。彼は想像を上回る面倒見の良さで、そして過保護なのだ。頷けど保証はできないところが難しいところである。
 ヒトハはもう一度すんと鼻を啜った。

「先生は、私を心配して来てくれたんですか?」

 今度はヒトハが問うと、彼は「まあな」と肩をすくめた。

「しかし俺に嘘をついたことも、隠れて男と会っていたのも、許し難い行為だ。躾は悪い行いをした直後にしなければ意味があるまい?」

 やはり嘘をついたことも彼をここへ導く要因になっていたらしい。しかしどこか言い方が引っかかって、ヒトハは「ん?」と首を傾げた。

「じゃあ、女の人だったらよかったんですか?」

 隠れて男と会っていたのが駄目なら、女ならよかったのか。ヒトハの素朴な疑問を聞いて、クルーウェルは驚いた。

「俺にそれを聞くのか?」

 答えを聞く前に、続けて問う。

「分かって言っているのか? それとも、分からずに言っているのか?」
「分からないから聞いてるんです。リオさんが嫌いだからじゃないんですか?」

 むきになって言い返すと、彼は「あいつが嫌いだから?」と愕然とした。そして眉間を摘まみながら「お、お前は……本当に……」と苦しそうに唸る。どうやらいけないことを言ってしまったらしい。

「えっと……ごめんなさい?」

 ヒトハが覗き込むようにして様子をうかがうと、彼はバッと顔を上げた。不機嫌そうに口をへの字に曲げているが、頬の天辺に、ほんの少し赤みが差しているようにも見える。

「いいだろう。いい加減、分からせてやる」

 再び手が伸びてくる。それはヒトハの乾いた頬を触り、耳飾りをなぞった。

「……やはり色が気に食わんな。しかし、物はいい」
「先生、くすぐったいです」

 急にどうしたのだろう。落ち着かず身を捩ると、彼は目を細め、ちょっぴり意地悪な顔をした。
 ひたりと大きな手が頬を覆う。ヒトハはその熱さに心臓を跳ねさせた。こちらを見る目は真剣で、ヒトハはそれに怖気づきながらも、そこから目が離せなくなってしまう。

(熱い……)

 のぼせたように頭がぼうっとしてくる。
 そういえば、今日の彼の姿をよく見ていなかった。でも今は、黒の蝶ネクタイも似合うだとか、今日は赤色がないだとか、近くで見るとアイメイクがいつもと違うだとか、そういう頭を使わないことしか考えられない。
 何か言わないと。ヒトハは口を開いた

「せ――」

 それと同時に、静まり返っていた庭園に「あ!」と驚いた声が響く。

(……あ?)

 ヒトハとクルーウェルは素早く声のしたほうへ振り向く。
 そこにはなんと、リオが大手を振りながらこちらへ駆けて来る姿があった。ヒトハは覚醒し始めた頭で、自分の状態を冷静に理解し始める。
 クルーウェルとの距離はいつの間にか近くなっていた。あと少しで息がかかるくらいには。

「ヒトハさん! クルーウェル先生!」
「ゔわ――――――――っ!?」

 ヒトハは慌ててクルーウェルの肩を両手で押しやり、勢いよく立ち上がった。ぐい、と目元を拭い、すっかり存在を忘れていたパーティー用のクラッチバッグを抱える。
 そうだ、まだパーティーは続いているのだ。ヒトハは思い出した。化粧を直さなければ会場に戻ることはできない。

「わ、わわ、私! お手洗いに行ってきます! すぐに戻るので! すぐに!」
「な」

 そして唖然としているクルーウェルとリオを置いて、ピュンと元来た道を駆け出す。

「おい! その靴で走るな!」

 怒鳴り声が聞こえたような気がしたが、ヒトハの真っ赤な耳では正確には聞き取れなかった。走る足も痛みを主張する暇がなく、立ち止まることもなかったのだった。



 残された男二人は威勢よく走って行ったヒトハを見送る間、しばらく無言の時間を過ごした。
 リオは自分が何をしたかをじわじわと理解し始め、気まずい顔でベンチの前で途方に暮れる男に顔を向ける。

「……せ、先生?」

 男はこちらを見もしないまま、感情を抑え込んだ声で言った。

「この、駄犬が…………」
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2023/11/13