第五話 一発だけでいい
第一章 入門編



 要は拳を握り締め、目の前の敵――鹿賀達彦へ向けて地を蹴り、駆け出していった。

 感情の高ぶりのままに導き出された要のその動きには、策の「さ」の字も見られない。爪が食い込むほどに握られたその拳を、目の前の憎たらしい顔面へ力任せに叩きつけることしか頭になかった。

 猪突猛進。その表現がよく似合う。

 そのためか――向こうも対処するのが容易だったようだ。

「ぐぅっ!!」

 要の拳が振り出される前に――頬骨へ向けて達彦の無骨な拳がしたたかに打ち込まれた。

 その強烈なインパクトによって進行をストップさせられ、全身が勢いよく後方へ押戻される。

 一瞬宙を舞い、そして地面に仰向けに叩きつけられた。平べったい衝撃が背中を打ち、一回咳き込む。

 ようやく勢いは収まったが、その瞬間、冷や汗が一気に湧き出した。

 ――なんだ、これ…………シャレにならねぇ……

 それが、達彦の鉄拳を味わった要の感想だった。

 凄まじい衝撃だ。

 受けた瞬間、先ほどまで自分を駆り立てていた怒りの気力が大幅に削がれ、四肢の力が一気に抜け落ちた。

 こんな重い一発をもらったのは初めてだった。

 自分はこれまで、嫌がらせをしてくる奴への反撃のために、ケンカを割と多くやってきた。勝ったことはあまりないが、それでも殴られた回数にはある程度自信がある。

 だが今の一発は、今まで受けた中でもダントツの威力だった。

「ほらどうしたよ? 一発食らっただけでもう白旗の出番か?」

 達彦は未だ仰向けの要を見下ろしながら、好戦的な笑みを浮かべてそう促してくる。

 要はケンカを買ったことをいささか後悔した。

「血染めの鹿賀」の由来は胡散臭いが、コイツの実力そのものはおそらく本物だ。拳を取り柄だとする説得力は十二分にある。

 そんな相手に、体の小さい自分は勝つことが出来るのだろうか? 負け戦ではないのか? 弱気な気持ちが生まれ始める。

 ――落ち着け、俺。

 要はそんな気持ちを無理矢理振り払う。

 もうケンカは始まってしまったのだ。負ける気を起こしてしまったら、それこそ本当の負けとなる。

 自分は確かにケンカは強くないが、限界になるまで諦めたり、おもねったりしたことだけは一度もなかった。

 ならば今回も、最低限それだけは守り抜こう。

 それに、諦めなければ、何か勝利に繋がる道が開けるかも知れない。要はひとまずモチベーションを持つために、その根拠のない希望にすがることにした。

 要は力の抜けた体に鞭を打ち、気力を振り絞ってゆっくりと立ち上がる。

 そして、目の前にどっしりと立った達彦を睨みつける。

「へぇ……お前見かけによらずタフだな。大体のヤツは一発KOなのによ」

 達彦がやや目を丸くして言った。

 要は片頬のズキズキした痛みを我慢しながら深呼吸し、気持ちを落ち着ける。そして力を蓄えるように大きく息を吸った。

「そりゃどー……もっ!」

 息を細く鋭く吐き、気合を込めて走り出す要。

 一歩一歩力強く踏みしめ、ただ一直線に。一見、先ほどと同じパターンだった。

「おいおい、学習しろよ。さっきそれでぶん殴られたばっかだろうが」

 達彦は鼻で笑い、拳を振り上げて要の接近に備えた。

 要の瞬発力の高さゆえに二人の間隔はすぐに狭まり、達彦は振り上げた拳を要の顔面めがけて推進させ始める。

 ――今だ!

 要は踏みとどまり、履いているカンフーシューズのソールで地面を擦るように前へ蹴った。

 硬い革製のソールは土の表面を深く削り取り、土くれや細かい砂粒を達彦に向かって盛大にばら撒いた。

「うっ……」

 土のシャワーを浴びた達彦は目を閉じ、慌てて顔を背ける。狙い通りの反応だ。目に砂が入ったのだろう。これなら防御はできまい。気に入ってカンフーシューズを普段履きしていたのが役に立った。

 要は再び地を蹴り瞬発。握った右拳を達彦の顔面へ向けて振り出――

「――なんてな」

 ――そうとした瞬間、達彦は背けていた顔をくるりとこちらへ向けてきた。ニヤついた笑み。

「ヤバい」と思ったが時すでに遅し、達彦は右足を上げ、靴の裏で踏むように要の腹部を蹴った。

「がふっ!」

 要は胃を圧迫されるような苦痛を感じ、慣性で真後ろへ流されるが、必死にたたらを踏んでなんとか倒れずに済んだ。

 達彦は小馬鹿にするように言ってきた。

「バァカ、そんな手使う奴なんざ腐る程見てきたっつうの」

 この野郎、砂を浴びる前に目をつぶってやがったのか。

 なけなしの策を破られ悔しく思いながらも、要は歯を食いしばり、三度目の突進を図る。全然平気。最初のパンチに比べればまだ軽い方だ。

 達彦に急接近。フック気味に右拳を放つが、軽く身をよじっただけでかわされてしまう。

「このっ!」

 要はムキになって何度も拳を連打するが、いずれも軽やかなステップでよけられる。達彦はというと、ポケットに手を入れて余裕綽々といった表情だ。非常にムカつく。

「ふははは! ほらほら頑張れチビッ子ーー!」
「一発ぶち込んでみろー!」
「無理だろーけどなぁーー! ははは!!」

 端から手下三人がはやし立ててくる。悪態の一つでもついてやりたいけど、そのエネルギーはコイツを殴るのに費やそう。要は自分を律し、攻撃を継続するが、

「ほらよ、受け取れ」
「がっ!!」

 要の頬に拳が激しく叩き込まれ、冷たい地へうつ伏せに倒される。

「はははは!」と、手下三人が自分を嘲笑う声が上から降ってくる。

「いってぇ……!」

 地面に四つん這いになりながら、要は油の差していない機械のようにぎこちなく後ろを向き、達彦を睥睨する。

 チクショウ、手も足も出ない。

 一体どうすればいい? 必死に考えを巡らせる。

 そして、ある可能性が浮かんだ。

 ――『開拳』。

 現在、要が知っている唯一の技。ここ一週間必死で磨いてきた一本の剣。

 この技の持つ威力次第では、形成はひっくり返るかもしれない。

 だが、成功率は現在、十分の一。十発のうち一発は撃発出来るが、残り九発は不発のロシアンルーレットのようなもの。

 うまく達彦の土手っ腹に当たっても、それに威力が乗っている保証はどこにもないのだ。

『技というのは確実に成功させられてナンボだろう。戦場にジャムを起こしまくる銃なんぞわざわざ持って行きたくはなかろう?』

 一週間前に聞いた易宝のそんな言葉が脳裏を去来。

 確かに、その通りだ。確実に成功させられるほど技を成長させていたなら、こんなことで悩まないで済んだだろう。要は今更ながら、先達の偉大さを痛感した。

 その「十分の一」という難儀な確率を踏まえた上で、「やるのか?」「やらないのか?」要は自問する。 
 答えはすぐに出た。

 ――やってみよう。

 認めたくはないが、達彦は今の自分よりも強い。それに、場数を踏んでいる。砂かけをよけられた時にそれがよく分かった。このまま普通にやりあえば、自分に勝ち目はないだろう。

 なら、奴が知らないような、普通じゃない攻撃をしてやれば何かが変わるかもしれない。

 確証はない。だがやってみる価値はありそうだ。どうせ勝率の低い勝負。なら、やれるだけの手を打とう。

 それに、崩陣拳の突き技がどれほどの威力を持つのか見てみたい。そんな好奇心もあった。

 要は腹を括り、痛みをこらえてよろよろと立ち上がる。

 そして、右拳を脇に構え――そのまま走り出した。

「諦め悪ぃな、まだやんのかよ」 

 向こうの達彦が何か言ってくるが、無視してダッシュを続行。

 ――思い出せ、練習の時の感覚を。

 要はここ一週間、易宝養生院で行ってきた修行のことを何度も思い出す。

 大切なことは『全身の動きを同調させる』ことだ。猫が繋がった下半身と背中を同時稼働させて高く跳び上がるように、全身の筋肉同士に「繋がり」を持った体を同時稼働させることで大きな力を作り出し、それを打撃部位に集約させる。

 そう。それを忘れるな。自分に言い聞かせる。

 やがて、達彦との距離が一メートル少々にまで縮んだ。

 要は意を決し、右足で踏みとどまる。左拳を前に構えて引き手を準備し、意識を鼻先の延長上――達彦の腹部に集中。
 軸足となった右足を素早く屈曲させ、それを一気に伸ばし、解放。それに同調させる形で引き手と腰を引き込むことで『通背』を発生させた。脇に構えていた右拳が自然と前へ伸びる。

 上、下半身の動作を総動員させて放った鋭い一拳が、達彦に迫る。

 当たる――そう思った。

 だが、その予想はあっけなく裏切られた。

 踏み込んで動作を終える前に――――顔面に強烈な衝撃を受け、進行を妨げられた。

「ぐぅっ――――!!?」

 とんでもない激痛とともに、一瞬視界がチカチカと明滅。受けた衝撃の余波が自分の体を後方へ押し返し、せっかく接近した右拳がどんどん達彦から離れていく。

 見ると、自分の目と鼻の先には――石のように固く握り締められた達彦の拳があった。

 要はそのまま重力に引っ張られ、背中から倒れる。

「うっ…………く……」

 大きく余韻を残す顔面の痛みに、要は小さくうめく。

 鼻の穴から生温い何かが唇を跨ぎ、顎へと伝っていく。唇に付いたそれを舌先で軽く舐めると鉄の味。手にとるとそれは血だった。

 ――当たらなかった。

 残念な結果ではある。

 だが、同時にある事に気がついた――自分のパンチが達彦に届かない理由に。

 かすかに血の付いた自分の細い腕を、要は恨めしそうに見る。



 ――腕のリーチが足りないんだ。



 自分と達彦との間にはかなりの身長差がある。自分は百六十二センチだが、達彦はまず百八十は超えているだろう。

 そのため、腕の長さにも少なからずの差がある。

 自分の短い腕で殴りかかっても、拳が当たる前に達彦の長く太い腕で止められてしまうのだ。

 ――体が小さいことがこれほど不利だなんて。

 要は悔しげに歯ぎしりする。

「おい、もう死んだかぁ? 工藤要ぇ? ハハッ!」

 心底楽しそうに訊いてくる達彦の声。

 さっきまで辛かったが、それを聞いた瞬間、かすかにだが力が湧いてきた。自分はとことん負けん気が強いらしい。

「……勝手に殺すなよ」

 要は痛みをこらえてぎこちなく立ち上がり、そう悪態をついて達彦を細目で睨んだ。

 そう簡単に倒れてやるもんか。体力の続く限り抵抗してやる。

 要は絶望的なまでの悪条件を承知の上で、手負いの体に鞭打ち、負けん気の赴くままに立ち向かっていった。







 ◆◆◆◆◆◆ 








 ――時を同じくして、易宝養生院。

「んんっ?」

 台所のテーブルセットに座り茶を楽しんでいた劉易宝は、不意に「ピシッ」と音を立ててひび割れた手持ちの茶杯を訝しげに眺める。

 テーブルに用意されている茶器セットとは長い付き合いになる。そのため陶製の小さな器のあちこちには、細かい傷や落ちきらなかった茶渋が浮かんでいる。

 ひび割れた箇所から、中に入った黄金桂茶がじわじわと染み出て指を濡らす。

 いい加減、新しいのを買わないとならんか。

 この手の茶器は中国からの輸入品だ。今は円安の影響で輸入雑貨の勢いは下火になっている。いいものが置いてあるだろうか。

 だが、これらの茶器は昔、日本円が有利だった時期を狙って中国で安く買ったモノで、中国ではそれなりに高級品だ。時間が経っているからといって、こんな簡単に割れるものなのか。

「縁起が悪い……」渋い顔で呟く易宝。

 ふと思ったのは、要の事。もしかして、何かに巻き込まれてやしないだろうか。

 どういうワケか、崩陣拳の拳士はやたらと戦いに縁がある。自分が戦ってきた数だって、両手両足の指全部を使ってもまだまだ足りないくらいだ。

 要の『開拳』はもうすぐ完成する。

 だが、所詮は未完成だ。おまけに知っている技はそれ一つ。もし今の状態で戦いに巻き込まれていたとしたら、苦戦は避けられないだろう。

 要は体が小さい方だ。しかしそういった者にも、ちゃんとその背丈に応じた戦い方というものが存在する。

 だが、要は直情型だ。そんな戦い方があるのを知らずに馬鹿正直に相手へ突っ込んで行く姿が容易に想像できる。

「せめて『百戦不殆式(ひゃくせんふたいしき)』くらいは教えとくべきだったか……?」

「はぁ」と嘆息する易宝。

 まぁ、ここは世界一安全な国だ。普通に暮らしていれば、まず命に関わる戦いは起きないだろう。








 ◆◆◆◆◆◆ 








「はあ…………はあ………………ケホッ……」 

 要は息を切らせながら、校舎裏の地面でうつ伏せに倒れている。

 その顔は鼻血や打撲痕だらけになっており、新品の学ランは土ほこりで茶色く汚れていた。

 体のあちこちが痛く、腕一本動かすのすら億劫だ。

 要はそのまま上目遣いで達彦を見た。自分とは真逆にその体には傷どころか汚れ一つ見られず、侮蔑の表情でこちらを見下ろしている。

 悔しさでギリッと歯を鳴らす。

 勝負が始まってすでに十分ほどが経過しているが、自分は未だ達彦に一発も入れることができないでいる。
 だが逆に達彦からは数え切れないほどに殴る蹴るを受けた。最初のうちはこらえることができたが、自分は鋼鉄の皮膚を持ったサイボーグ戦士じゃない。限界はすぐにやって来て、今このように地に伏している。

 要は腹や背に力を入れ、懸命に立とうとする。立ち上がりたい。立ち上がってまだ足掻きたい。

 だが、体は鉛のように重く、必死に立とうとする自分を無理矢理這いつくばらせ、地面とキスさせようとしてくる。

 そう、まるで――

「もう諦めて横になっちまえよ。その方がラクだぜ?」

 ――今、達彦が口にした言葉を、自分の体が言っているかのようだ。 

 要は達彦に表情を悟られないよう顔を伏せ、悔しげに目と唇を食いしばる。

 ――これじゃあ、小畑の時とほとんど同じじゃないか。

 一方的に殴られ蹴られ、体力も底をつき、残っているのは気概だけ。去年と違う点といえば、相手が大勢か一人かの違いだけだ。

 結局、自分はあの頃から何も変わっていない。何が「『開拳』十回に一回成功するようになった」だ。そんなことに一喜一憂して、いざとなったらこのザマだ。
 俺はまだ全然弱い。

 ザッザッザッ。地に伏せた頭に足音が迫ってくる。

 やがてそれが耳元まで来ると、髪が乱暴に上へ引っ張られ、その痛みとともに顔も上げさせられる。

 すぐ目の前には、冷笑を浮かべた達彦の顔。自分の髪の毛を鷲掴みにしながらしゃがみ込んでいた。

「もう分かったろ? テメェは所詮何の力も無いくせに、虚栄心だけは一丁前なクソ野郎、無駄吠えばかりの負け犬だ。俺が強い人間でテメェが弱い人間、これが現実だ。分かったら負け犬は負け犬らしく、ヌケサクヅラ浮かべて勝ち犬の俺に腹見せろや。ほら、やってみろよ。そしたらもうやめてやんよ」

 楽しげに鼻で促してくる達彦。その後ろでは手下三人が一斉にスマートフォンのカメラレンズをこちらに向けている。撮る気なんだろう、自分の服従写真を。

 確かに、もう自分には体力は残されていない。このまま続けたって結果は知れている。奴の言う通り、腹を見せた方が賢明だろう。

 だが、やはりそれは出来ない。



『許して欲しかったら、今すぐそこで潰れたカエルみてーに土下座して『もう二度と逆らいません』って言ってみ』



 もし今、コイツの言う通りにしてしまったら、去年同じようなことを言ってきた小畑に服従することと同義になってしまうような気がしたからだ。

 残念だが、この勝負には負けてしまうだろう。正直言って悔しいが、まだ許せる。

 だがそれでもやはり――腹を見せるのだけは絶対に願い下げだ。

 要は口を開き、かすれた声で返した。

「…………嫌だ」
「はぁ? 状況考えて物言ってんのか? もう弱ぇテメェに勝ち目なんざねぇんだよ」

 達彦は物分りの悪い子供と対するような顔でそう吐く。

「うっせーよ……嫌なものは嫌なんだよ……………………それと…………一つ訂正させろ」

 要は一旦言葉を区切り、そして続けた。

「お前の言う通り…………俺は弱いよ。超弱い。口ばっかかもしれない。でも――――強くなれないわけじゃない」

 そうだ。
 確かに今は弱い。
 でも、これから先ずっと弱いままじゃない。


『武術とは本来、弱い人間が強くなるための技術の集合体で、中国武術ではそれが特に顕著だ。病人や虚弱体質だった者が名だたる達人になった例も多いくらいだからのう。強い人間にしか使えないようなら、その時点で存在価値はなくなるさ』


 易宝は言ってくれたのだ。弱くても強くなれる、と。

 過ごし始めてまだ一週間少々だが、これだけは分かった。あの人は普段は飄々としているが――武術に関しては厳格で、そして誠実だ。

 あの人が強くなれるというのなら、きっと自分は強くなれる。

 易宝の言葉を信じたからこそ、自分はずっと弱いままだ、みたいに言ってきた達彦に反論したかったのだ。

 すると――それを聞いた達彦は顔を一気に紅潮させ、さっきまで余裕のあった表情を憎々しげに歪める。

 そして要の髪を掴んだまま後ろへグイッと引き寄せると、立ち上がって要の脇腹を爪先で強く蹴りつけてきた。

 強烈な痛みとともにうつ伏せから仰向けに転がされ、それから何度も何度も全身を蹴られ続ける。

「綺麗事吐かしてんじゃねぇぞこのウジ虫野郎、劣等遺伝子が!! テメェの言ってん事はただの都合のいい妄想!! ファンタジー!! 優秀な人間は優秀なまま甘い汁ばかりを吸って生き、ゴミみたいな人間はずっとゴミのままだ!! それが現実なんだよ認めやがれ!! 亀がウサギを気取ったからって早く歩けんのか!? バカじゃねぇのか!! 歩けるわきゃねぇんだよクソが!!!」

 達彦は憤怒の形相でむちゃくちゃに罵声を発しながら、要の体のあちこちをむちゃくちゃに蹴りまくる。

 痛い。痛い。痛い。必死に腕でガードしているが、その腕さえも痛い。ただでさえ満身創痍なのに何度も蹴られるため、意識が飛びそうになる。

 ガードする腕越しに、達彦の顔を薄目で見る。奴の顔は怒りで真っ赤になっているが――その中にはどこか羞恥のようなものをなんとなく感じた。

 しばらくの間なんとか耐え抜くと、熾烈なキックの嵐はピタリと止んだ。

「はぁ……はぁ……はぁ…………」

 仰向けになった自分のすぐ横で、肩を上下させながら苦しそうに息継ぎする達彦。今の蹴りで体力を使ったようだ。

 だが、ズタボロな自分と比べれば、達彦の方がまだまだ余力があるだろう。

 自分は度重なるダメージが蓄積して、もう余力は残されていない。

 この状態で、一体何が出来るだろう。

 要は考える。
 考えて。
 考えて、考えて。
 思いついた。


 ――せめて一発、軽くてもいいから殴ること。


 このケンカで、自分は一回も達彦を殴れていない。
 自分の体はもう限界だ。勝つことは出来ないだろう。

 だからもう、「勝ちたい」なんて贅沢は言わない。

 せめて――奴に一発ぶちかましてやりたい。

 後のことはそれから考えよう。

 要は全身にありったけの力を込める。
 歯を食いしばって、こみ上げてくる痛みや疲労感を必死に抑え込み、踏ん張って、踏ん張って――立ち上がった。

 立ってすぐ目の前には、散々自分を痛めつけてくれた達彦がいた。

 要は足元を見て、目を丸くする。自分と達彦の距離は、間違いなく一メートルを下回っていた。腕の短い自分が手を伸ばしても届きそうな距離だ。

 ――この距離なら、当たるかもしれない。

 使おう――――イチかバチの『開拳』を。

「チッ……まだ起き上がんのかよ…………潰しても潰しても動こうとする。まるでゴキブリだな」

 達彦が苛立った様子で言う。自分がすぐ近くにいるというのに、警戒一つしていない様子だ。完全にナメきっている。

 だが、要にとっては好都合だった。警戒されるより、油断してくれていた方がずっとやりやすい。

 要は気持ちを落ち着ける。
 突き出す右拳を脇に、引き手となる左拳を前に構えた。狙いは、達彦の腹部。 
 そして右足を軸にし、腰を落とす――準備は万端だ。

 達彦はゴツゴツとした鈍器的な右拳を耳の隣に振り上げ――

「でも――――いい加減プチッと逝けやぁぁぁ!!」

 ――それをこちらへ打ち下ろして来た。

 大きな圧力を秘めた拳が、空気抵抗を受けながら要の顔面へ迫ってくる。

 だが、要は不思議と冷静だった。

 易宝に口を酸っぱくして言われてきた事を脳内で再生させながら、その通りに体の各所へ命令を与え、流れるように五体を操作する。




 ――――突き手を意識するな。意識するのは引き手とへそ周りだ。それらを引き込めば、突き手は自然と前へ伸びる。




 ――――後ろ足の伸びを利用して踏み込め。後ろ足を伸ばす力と重心移動、これらの力を使うためだ。




 ――――手足の動きを同調させろ。同調なくして、大きな力は得られない。







 これら三つの教えが今、達彦の腹部で一つになった。






「ゲェッ――――!!!」

 急激に重量を増した拳が人の肌に食い込む感覚とともに耳に入ってきたのは、カエルに似た不気味なうめき声だった。

 目の前には、要の拳の接地面から体をくの字に曲げ、目玉をひん剥いて驚愕と苦悶の表情を浮かべる達彦の姿があった。

 だがそんな姿を間近で見れたのも束の間、達彦は後方へ勢いよく吹っ飛び、地面に背中から着地すると二回後転してから仰向けになって静止した。

「うっ…………ぐぁぁっ………………!」

 静止してからも、達彦は打たれた腹部を押さえながら苦痛に顔を大きく歪める。

「かっ、鹿賀さーん!」「ダイジョブっスかー!?」「鹿賀さんが負けたぁ!?」手下三人が慌てて自分たちのボスの元へ駆け寄った。

 そんな連中の様子を、要は拳を突き出した体勢のまま、惚けた表情で眺めていた。

 一体何が起こったんだ?

 いや、それ以前に、コレをやったのは俺なのか?

「テッ……テメェ…………いったい、何しやがった………………!?」

 向かい側の達彦が、苦しげに訊いてくる。

 やっぱり、これは俺がやったのか。だが、どうやって? 要はそんな分かりきった疑問を解決するのに数秒も要した。

 『開拳』を打ったから……?

「先生、こっち! こっちっス! ケンカ!」

 刹那、後ろの曲がり角の向こうから、切羽詰ったような声が響いてきた。

 要はハッとする。聞き覚えのある声。男子にしてはキンキンと高めな芸人っぽい声――倉田!

「ゲッ!? 誰かが先公呼びやがった!」
「やべぇぞ!」
「ずらかるべ!」

 手下三人は焦った様子で達彦の両肩を持ち上げると、そのまま向こう側の曲がり角へそそくさと姿をくらました。

 やがて後ろの曲がり角から声の主である倉田と、そして岡崎が姿を現した。教師の姿はない。どうやら倉田がハッタリをきかせてくれたようだ。

「おい、工藤!」
「大丈夫か!?」

 倉田、岡崎はこちらへ駆け寄り、緊張した表情で要のボロボロの身を案じてくれる。

「あ…………ありがとう、二人とも」

 要はその場にへたり込み、気の抜けた笑みで感謝を告げる。達彦は無力化したかもしれないが、残り三人が襲って来たら正直ヤバかった。


 安心しきった要はそれからしばらくの間、まるで腰が抜けたように冷たい校舎裏の地面に座り続けた。



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