坂口安吾は決まって必ず、とても調子が悪い日がある。
安吾との関わりは特務課に入ってからであった。それより以前の彼を知っている訳でも無いので断言は出来ないが、最初の年辺りはそんな事無かった筈だ。
確かポートマフィアの潜入捜査から帰ってきて数日が経過した日の事であったか、数枚の紙をグシャリと握り潰し感情を抑えるように歯を食いしばり我慢しているような姿を目撃した事があった。その時はただならぬ雰囲気だったが故にあまり触れる事はせず、彼の中に踏み込む事をしなかった。
その日から年に1度の同じ日に燃料切れのロボットのような動きになる。きっとあの時の紙に書かれていた事に関連する事なのだろうと予測を立てるが、それに書かれていた事までは分からない。故に私が出来る事は普段の調子ではない彼のサポート位であった。
公私混同しない彼は、仕事に関しては義務感があるのか表面上は完璧にこなしている。仕事の集中力が切れた時や休憩中などに魂が抜けた殻のように動かなくなると話題に上がるのだが、それも徹夜を重ねに重ねれば見る光景である。ただ徹夜もしてないだろう今回の彼は仕事を捌く速度に関しても長年共に居た私からすれば少し遅いように感じるし、生半可な返事が返って来る事が多い。まあ、それにしたって関わりのない人間からしたら至って普通の坂口安吾としか見えていないだろう、社畜魂は凄いものだと感心しつつ頼る事が少し不器用な彼の溜め込んでいる仕事を奪うべく足を向けた。
「お疲れ安吾、何か飲む?」
「…お疲れ様です。珈琲お願いします」
「ほーい」
私もやる時はやる女だ、ただ普段ちょっとやる気スイッチが切れてるだけで。周囲で困ってる人間が居れば助けるし逆に助けられる事もある、こういう時は持ちつ持たれつという奴だ。特に安吾には大変お世話になっているし、偶には私が彼を助けるのも悪くない。
「熱いから気を付けてね」
「…有難うございます」
自分と彼の分の珈琲を淹れて彼のデスクまで運んで持って行く。いつも通りのように見えるが1度もこちらに顔を合わせようともしない彼に私は顔を覗き込んだ
「何ですか、仕事が出来ないでしょう」
「大丈夫?」
「だから、何が…」
「何か凄いしんどそうだけど」
いつも以上に気怠そうな彼に対して、まさか熱でもあるのだろうかと少し不安になり問いかけた。するとどうしたのだろうか、彼は口を一文字に結び何かを耐えるかのような表情を浮かべるではないか。ずれてもない眼鏡を指で押してはすぐに顔を逸らされいつも通りの無表情に切り替わっていたが、思わずぎょっとして何か逸らす話題でも無いかと逃避する事を選んでしまった。
「あ、あー…今手が空いてるし簡単な仕事手伝うよ。」
「有難う御座います。」
嗚呼、駄目だ、対処がよく分からない。似たような険しい表情をさせる事はよくあるし、その時は決まって私が怪我を負った時にするのだが今回は全く見当が付かない。何故彼はあんな表情をしたのだろうか?彼ってそもそも私の前で泣いた事など無いのではないか?この4年間、毎年この日に彼をここまで追い込んでる原因は何なのだろうか。考えた所で意味は無いが、先刻の彼の表情がこびりついて離れない。彼との距離感について頭を悩ませながら適当な仕事を掻っ攫っては珈琲と共に自分のデスクに持って行った。
時は経過して夜になった。彼は未だに机に齧りついて仕事をしており、私も彼から貰い受けた仕事が山積みで少しでも数を減らそうと残業している。他の人達はは仕事がひと段落して既に帰ったのか、この空間には私と安吾しか居ない。ただただコンピューターの機械音やキーボードを叩く音だけがこの空間を支配し、私達の間に会話は1つも無かった。
「…名前さん、貴女そろそろ帰りなさい」
「仕事終わらん」
「終電無くなりますよ」
「安吾もじゃん」
意外にも沈黙を破ったのは安吾の方だった。お互い仕事片手に会話を続行する。
「僕は仕事がありますので」
「私もあります」
「元は僕の仕事ですし、置いといてくれればやりますよ」
確かに元々は安吾が抱えていた仕事だ。本調子で無い時位さっさと帰って休めば善いと思い、自分でも出来そうな書類を全て手元に置いている。チラリと彼のデスクの方を見れば書類は現在進行しているもので最後といった所であろうが、それでも仕事をやろうとする理由は何だろう。
「安吾、今日位帰りなよ」
「昨日帰りましたよ」
「違うそうじゃない。今日本調子じゃないでしょ」
しれっと社畜魂を見せる言葉を無視し、私は彼の中に踏み込んでみる事にした。それが吉と出るか凶と出るかは分からないが、彼が少しでも楽になれる選択肢であれば善い。
「…いつも通りです」
「いーや、違うね。毎年この日は」
「…」
「何があったか無理に聞かないけどさ、しんどいならちょっと位頼ってもいいんだよ」
どういう反応をしているのだろうか。また泣きそうな表情でも浮かべてるのだろうか、それともお節介野郎だと面倒そうな顔をしているのだろうか。パソコンの方ばかり目を向けて安吾の方を見る事が出来ないまま、沈黙が走る。
コツリ、コツリ。足音が聞こえた。どうやらこちらに向かってきてるらしいが振り向く事はしない。そのまま放置を貫きながら仕事を進めていけば、カラカラと椅子のキャスターが回る音が背後に迫り、やがてボスンと肩に何かが乗った。
「安吾?」
「すいません、少し、このままで」
「んー」
震えた声を出す安吾を押し返す事も出来ず、ただ私は彼に肩を貸した。
「…友人が、居たんです」
「うん」
「4年前、僕は、…」
ぽつり、ぽつり。内側から溢れ出る何かを押し殺そうと、震え詰まった声色を出している。
4年前…矢張りポートマフィアの潜入に関係があるようで、きっと彼の姿からして大事な友人を失いでもしたのだろう。裏切った事によって関係性が途切れたか、或いは。私には何も云わない彼の言葉から憶測を立てる事しか出来ないが、これだけは分かる。
「大事な友人だったんだね」
彼が、その友人がかけがえのない存在だったのだろうと。
その瞬間、彼の渦巻いた感情がパチリは弾け、涙として溢れ出た。声こそ出しはしないがじんわり湿る肩が物語っている。
同時期に初めての部下を亡くした私は、今ではもう彼の事を思い出しても涙が出る事は無い。私は案外薄情な女で、機械じみた彼の方が余程人間らしい。
私は彼の髪を撫で、落ち着くまで仕事に打ち込むのだった。
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