出会い
それなりに暖かい家庭だった、と思う。
少なくとも私は、「おとうさん」「おかあさん」と呼べば返事をしてくれ、手を繋ぎたい時に繋げ、抱きしめて欲しい時に抱きしめてくれる、良い夫婦の間に生まれたと思っていた。
家には小説がたくさんあった。本が好きな両親の間から生まれた私は、活字を読むのが好きな人間に育った。
気になった本は買い与えてくれる環境だったので、外なんか目もくれず片っ端から本を手に取っては辞書を引き、部屋の中でずっと本を読んでいるような子供だった。
毎日部屋に籠っていた訳では無い。父親の数少ない休日には「たまには外に出るか」と近場の公園に連れてきてくれ、砂遊びやブランコ、滑り台ではしゃぐ私をベンチに座って両親が眺めている事は結構あった。その両親の方に身体を向け全身を使って手を振ると、笑みを浮かべながら私に手を振り返してくれた。
時にはピクニックや遊園地など、少し遠出をするような場所にも連れて行ってくれた。同年代の子にしては比較的引きこもり体質だった私は、体力も無いのですぐにバテてしまったが、近辺で見れない風景に心躍らしていた。
私に愛情を注いでくれる、そんな親が大好きだった。
このまま永遠に楽しい時間が続けばいいのにと思っていた。
その日常は途端に崩れ去ってしまった。気味が悪いと親に捨てられたのだ。
雨が降りそうな雲行きの中、険しい表情の両親に行先も告げられず乱暴に車に乗せられた。「何処に行くの?」私が何度も問うても、こちらに睨みを効かせるだけで返事はしてくれなかった。不安を抱えながらも車に乗っているしか出来ず、誰も言葉を発する事も無い異様な雰囲気を漂わせる居心地の悪い中、車は突如動きを止めた。
何処か遊びに連れて来てくれたのだろうか、辺りを見回しながら母の手を繋ごうとしたらその手を振り払われ、私の背中を力強く押されてしまい、べしゃ、と音を立てながらその場に膝を付いてしまう。
土地勘の無いような遠い場所で降ろされ、両親は冷たい眼差しを私に向けたまま車で去っていった。
おかあさん、おとうさん。
もう居ない両親を呼ぶも勿論返事なんか返って来るはずもなく、なんで、どうして、これからどうしよう、死んでしまうのだろうか、不安な感情が沸々と頭に駆け巡り、最悪な結果が脳裏にこびり付いて離れない。どうすれば良いのか分からずやがて感情が爆発し、それが涙として現れその場でわあわあと泣き崩れた。
人通りの無い道で置き去りにされた私は、誰にも声を掛けられる事なく、その寂しさが助長して更に大声で泣いた。
どれ程経過しただろうか。
泣き疲れ、体力もほぼ尽き、泣いたせいで靄が掛かったような、ぼんやりとした頭でゆらゆらと歩いた先、辿り着いたのは貧民街だった。
海に囲まれた、鬱蒼とした所だった。
ゲラゲラ笑いながら、そこにたむろしていた大人たちが私に声を掛けてきた。声を掛けて貰えた喜びと疲れから私はその人達に助けてくれと懇願した。大人達はお互い顔を見合わせたかと思いきや「捨て子かよと」下品な笑いを浮かべ、やがて私を囲い、殴る、蹴る、髪を引っ張るなどの暴行を加えてきた。
髪を引っ張られた拍子にプチプチと音を立てながら頭皮から髪の毛が何本か抜け、引っ張られた服はビリッと音を立てて破れる始末。やめて、痛い、助けて、そう大声で泣き叫び訴えるが、大人たちはニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべながら私に暴行を加え続ける。恐らくストレス発散だったのだろうが、受けている側としては何度舌を噛み切って死んだ方がマシだと思った事か。
ガタイの良い大人たちと比べ、まだ小さい私は逃げる事が極めて困難な事だった。何せ、子供の身体である私と大人数の成人男性では、力も足のコンパスも何もかも違う。
ぎゅっと目を瞑って身体を縮込ませてされるがままに耐えていれば、ふと暴力が襲ってこない事に気がついた。私に飽きたのか、他に標的が見つかったのか、顔を上げて辺りを見回せば、いつの間にか大人達は”静けさ”を手に入れていた。
未だに頭の整理が付かず混乱しているが、なんとか逃げ延びる事が出来たのだった。捨てられた子供が言う事でもないだろうが、運が良かったのだろう。だが、今回は上手い事行けたが”自分自身”を使いこなさねばあの世の道までまっしぐらだ。そのためにも自分自身をもっと知り、もっと強くならねば。
少しずつ頭の整理が付いてきたので、思考を巡らしつつできる限り足を速く、前に動かす。最中に片方の靴が脱げたがあの場から逃げる事に必死だった私は脱げた事には気づかず、足の裏に小石が刺さろうが硝子が刺さろうが意に介さず、体力が尽きるまで走ってその場を去る。
もしかしたら近くに奴らの仲間が潜伏してるかもしれないのだ。口の中が血の味がし、走る度に乱れる呼吸に酸素が身体に十分に巡らず、頭も真っ白になりもう限界だと思って足を止め、その場に膝をつけばじんじんと全身の痛みが襲ってきた。暴行を受けた身体は服に隠れていない部分だけでも痣だらけで、靴が脱げた足も至る所に傷があり、足の爪は剥がれ落ちていた。それでもここで野垂れ死ぬ訳にはいかない、死んだ方がマシだと思っていたのに、心の何処かで生きたいと、生に執着していた私は裸足で数日飲まず食わず歩き続けた結果、子供が身を寄せて暖を取ってるだろう一角に辿り着いたのだ。
彼らは多少の差はあれど私と似たような服装をしていた。所々擦り切れて破れ、泥水を吸い汚れたボロボロの服を纏い、栄養が足りないのかげっそりとした病人のような顔色の子供が、目だけはギラギラと獣のように射貫き、攻撃を加えたら反撃を食らわせてやると訴えていた。彼らもまだ生を諦めていないのだろう。やがて、私の風貌を一目見た彼らはざわつき、こちらを伺うような、警戒しているその目つきに変わった。この人たちはきっと同じ境遇を経験した人たちなんだろうと対して生きてもいない、捨てられて数日しか経ってない私の勘が告げた。
先程の殺気をぶつけてきた彼らもきっと大人達に酷い事をされたのだろう、私と一緒なんだと少し仲間意識が出てきた瞬間、他にたむろしてるであろう大人に出くわしてはいけないという気が張っていた状態から一気に緊張の糸がほぐれ、空腹や身体の痛みなども相まって私は意識を失い、その場で倒れた
目が覚めるとそこは自室で大好きだった両親が居る家、という訳でも無く。どこからともなくびゅうびゅう風が吹き、セメントで出来た硬い地面に横たわり、暴行を受けたじんわり痛む身体に顔を顰めた。どうやら今は夜で、周りには先ほど警戒していた子供たちが膝を抱えながら眠りについていた
「おい、あんた大丈夫か?」
監視していたのだろう、私の目覚めにいち早く気づいた白髪の少年が、若干の警戒を混ぜた目つきで私の顔を覗き見てくる。大丈夫だと返事をしようと試みるも、数日何も飲んでない喉は悲鳴を上げ、声が出る事は無かった。少年は「少し待ってろ」と言って近くに居た他の仲間に声を掛けた後、何処かに走り去ったが、すぐに戻ってきて私に何かを差し出した。
「ほら」
「…?」
「公園の水道水だけど何も飲まないよりかはいいだろ?
紙コップはちょっと前にそこらで盗んできたやつだけどまあ汚くはねえだろ。」
盗んできたという言葉に対して現実を突きつけられ、ガツンと頭を殴られたような、暴行を加えられた要因ではない頭痛が私を襲った。そこまで堕ちてしまったのか、惨めな気分になり、なんとも言えない感情になった。貧民街は近寄ってはいけない場所という知識を知ってはいた。ちょっと前までは、それなりに暖かい家庭だった場所で、その大人たちに近づいてはいけないと口酸っぱく言われていたのだ。まさかそんな場所に居る事など予想もつかないだろう。
何も反応しない私にずい、と渡してくる紙コップを受け取ろうと未だ床に伏せていた軋む身体に鞭を打ちなんとか上半身を起こし、紙コップを受け取り水を飲む。カラカラに錆びた身体に染み渡るように水が喉を通り、胃に落ちる。そのまま勢いよくゴクゴクと水を飲むと少年は「良い飲みっぷりだな」と笑った。それに対して私はあんなに危険だと言われていた貧民街だが、実際1番危険なのは大人で、それは貧民街でも普通の世界でも同じで、子供たちはその被害者で、色んな感情が脳を支配し表現出来そうもない心境になり、混乱が涙に変わり、ボロボロと溢れ出るそれの止め方が分からず相手を困らせた。
これが、後の羊という組織になる彼らと私の出会いだった。