気持ち
それからというものの、「あー」やら「んー」やらクーイングしか出来なかった彼は著しく成長した。元々自分と同じ位の年齢だった為か、精神負荷で赤子返りしていたのが治まってきたのか、頭が元々良いのか。飲み込みも早く、難しい言葉でない限りこちらの言う言葉をある程度理解してくれるようになった。ただ、彼の発する言葉は大体単語のみで、接続語がまだ理解出来ていないらしく2、3つ位の単語を組み合わせて返事をする。まだ長い会話を続けるのは少し困難な上、表情はコロコロ変わるようになってきたのだが、自分の感情というのが未だに理解していないのか表現というのが大変乏しいが、とりあえず会話が成り立つようになり、意思疎通がだいぶ楽になった。
勉強会も思ってたより早く終わりそうだなと思ってた数日前の私を殴りたい。
___
まだ舌っ足らずながらも単語をある程度覚え、少しの意思疎通が出来るようになった時、座って勉強会では若干の飽きが見え隠れしていたのでそろそろ盗みや逃げ道、土地を教えて外の世界にも慣れさせようと思い、貧民街の外に連れ出してみたのだ。貧民街にある廃材や縄張り、悪い人間が居る事など彼が1度見た事のある事や知識はある程度自分から教えてたのだが、やはりと言ってはなんだが外に連れ出しても彼は何も知らなかった。
貧民街で見たことのない見目新しいものに対して興味があるようで、最初はただ目を輝かせながら私に引っ張られるがままに着いてきていたのに対し、今では何かあれば私の腕を引っ張りあれは何、これは何、と聞いてくるようになった。毎日毎日朝から夕方辺りまで外に連れ出され、ある時は金品など調達しに行こうと貧民街の方に向かおうとすると、そっちは逆方向だ、外に行くぞと言わんばかりに腕を引っ張り、ある時は作戦会議を終わらせ、次の行動を決めていない私が特に何もする事も無く腰を降ろしたままだと「そと」とだけ言いそちらの方角に指差すようになったのだ。分かった分かった行くからちょっと待ってと重い腰を上げて、ゆっくり歩く私とは裏腹に張り切って私の腕を引っ張ってくる彼に着いていく他無かった。無関心かは断然良いし、彼にとっても外の世界は勉強になる事がたくさんあるだろう。ただ私の知識と体力が彼に追いつくかどうかだ。
「ん、ん」
「ん?なあに?」
「あれ、なに」
「あれは看板」
「かん、?」
「か、ん、ば、ん」
「か、ん、ば、ん」
「そう、看板」
「かんばん、あれも」
「あれも看板」
彼の好奇心が強くてグイグイ引っ張られて来た場所で、店が並ぶ比較的繁華街である路地まで来た。こういう場所は基本的に人が多いのであまり宜しく無い。何せ、ボサボサの髪と小汚い服を着た私と、よく目立つ飴色をした髪を持つ見た目7、8歳の子供が未だに子供服を調達出来ていない為に、大人用のシャツをワンピースのように着ているだけなのだ。こういった格好は貧民街ではそういう子供も多いので別段問題無いだろうが、恵まれた人間には好奇の目で見られる。あの時男から奪ったズボンは既に売り払ってしまったし、他にも見つけた服が今のより大きかったり、女性用だったり。何より彼が今着ている服以外着ようとせず、以前他の子達がズボンを履かせようとしたのだが、あまり好きでは無いのか全部脱ぎ捨てただの布にする始末。それ以降子供達が何を渡しても履かせようとしても駄目で、一騒動起こしたのは記憶に新しい。ただ、少しマセた子がスカートを渡したら普通に履いた。何故スカートは良くてズボンは駄目なのだろうか。全く検討もつかないがとりあえず見た目宜しく無いので私が脱がせた。何故か彼が凄い剣幕でこちらを見てきたが、それも1度寝たら彼の機嫌も収まっており、いつも通りになっていた。
とりあえずこれ以上好奇の目で晒されないよう、人通りの少ない場所に行こうと繋いでた彼の手を引っ張り誘導する。キョロキョロ周囲を見渡しながら、たまにあれは何だと質問しながら大人しく着いてきてくれる彼をグイグイ引っ張って路地裏に連れて行く。ジロジロ見られる不快感のある視線は無くなり、ほっと胸を撫で下ろす。真っ当に生きてる人間では無いのでこういう視線は結構堪える。盗んだときに顔を覚えられて捕まえようとしてる人が居るかもしれない、実際そうやって捕まった人も居るのでここは彼の好奇心に付き合わず早く連れ戻せば良かったと少し後悔する。いきなり足を止めた私に気づかずそのまま後ろから思い切り激突してきた彼に、ああごめんと振り返り謝罪する
「ごめん、大丈夫?」
「はな」
「打った?」
「うーん…」
「痛い?」
「いたい?いたい」
「そっか、ごめんね」
鼻を思い切りぶつけたようでそこを抑えていたのだが、表現の仕方が分からなかったようなのでそれが痛みだという事を教えた。すると、彼は私の顔をじっと見つめてくる。「いたい?」少し眉を下げながらそう発した彼の言ってる意味がよく分からなかった
「え?」
「いたい?」
「何が?」
「かお、いたい、してる」
痛い顔をしている、どういう事だろうか?彼の言ってる意味が理解出来ない。もしや私は彼から見て醜女なのだろうか、確かに人によって価値観の相違というものはあるが、言われたことの無い唐突の酷い暴言が私を襲い、落胆する。世話係だから比較的一緒に居るし、彼がよく後ろを着いてくる事があるから他の子達よりかは好意的で仲が良い部類に入っていたと思っていたのだが、まさか醜女だと思われていたとは。尚更どんよりした気分に陥った。視線を足元に向け自然を俯いた私の頭に、何かが乗った。どうやら彼が私の頭を撫でてくれてるようで、心配そうな瞳でこちらの様子を伺っていた
「よしよし」
「え…?」
「かお、いたい、こんなかお」
「あ、はは、心配してくれたの?」
「しんぱい、それ、かお、だめ」
「っ…ありがと」
「ん」
彼は醜女と言いたかったのではなく、顰めっ面をしていた私を何処か痛いと勘違いしたらしい。私の顔を真似して顰めっ面を作る彼がなんだか面白くて、ついつい笑ってしまった。心配してくれた彼の真っ直ぐな気持ちが自分の腐ったものが溶けるような感覚と、鼻の奥がツンと痛み涙が溢れそうになったがぐっと堪え、笑みを浮かべる。それを見て安心した彼は私の背後から少し見える何かに興味を示したようで、狭い路地裏で私を引っ張ってそちらに向かう。
路地裏を出ると、そこには海があった。
「わあ…!海だ!」
「うみ?」
「うん、あれが海だよ」
「きらきら、きれい」
「きれいだね」
「ん」
現在拠点にしている半円球状にえぐれた貧民街では、1番高い所で見ても遠くからしか海が見えず、「少し青いな」程度で終わってしまっていたのだが、今見てるそれは降りればすぐそこに砂浜があり、海がある。間近で見れる海沿いの道では太陽の光が反射し、キラキラ輝かせ波打つどこまでも続く壮大な海に目を奪われる。隣から聞こえる彼の疑問に返事をし、そちらを向くと、キラキラと太陽光を反射し、風で靡く飴色の髪と、深い青を閉じ込めた海のような目を持つ彼の笑顔が、今見ていた海よりも輝いて見えた。