――寂しい、のだと思う。
そう言葉にしてしまえば簡単なのに、どうしてか、それを認めるのが少し怖かった。こんなふうに感じている自分を、誰にも見つけられたくないと思う一方で、見つけてほしい、とも思ってしまう。矛盾していると思う。
そのままソファに座って、何をするでもなく時間だけが過ぎていく。照明の色が、やけにやわらかく感じられた。――このまま、朝になるのかな。そう思ったとき、玄関の鍵が回る音がした。はっと顔を上げる。扉が開く気配と、聞き慣れた足音。
「……起きていたんですか」
落ち着いた声が、いつも通りの調子で部屋に落ちる。それだけで張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。言葉が出てこない。ただ、視線だけがそちらに向いてしまう。
七海は一度だけこちらを見て、何かを測るように目を細めた。それから何も言わずにコートを脱ぎ、静かに近づいてくる。
「……今日は、静かですね」
隣に腰を下ろしながら、ぽつりとつぶやくように彼は言った。返事はできなかった。代わりに、少しだけ呼吸が浅くなる。七海はそれ以上問い詰めない。ただ隣にいる距離を、ほんのわずかに詰める。
それだけだった。それだけなのにどうしてか、さっきまで広かった部屋が少しだけ狭く感じた。
「……何か、ありましたか」
問いかけは、あくまで静かだった。責めるでも探るでもなく、ただ心に置かれるだけの言葉。ふるふると首を横に振る。
「……いいえ」
声は思ったよりも弱かった。七海はそれを否定しない。ただ一度だけ息を吐いてから、こう言った。
「そういう日もあります」
簡単すぎる言葉だった。でもその雑さが、今はちょうどよかった。理由を探さなくていいし、説明もしなくていい。正当化もしなくていいもの。ただ、「ある」と言われるだけでいい。
そのまま、沈黙が落ちる。けれど、それは先ほどまでの沈黙とは違っていた。少しだけ温度がある。気づけば、肩に触れそうな距離に七海がいる。意識すると、余計に離れられなくなる。
――こんなことで、少し楽になるなんて。
自分でも驚くくらい、単純だ。ふと、視界が揺れた。あ、と小さく思ったときには、もう遅い。涙が落ちた。慌てて拭おうとした手を、七海が軽く止める。
「……いいです、そのままで」
低い声だったが、そこには穏やかさも混じっていた。その言葉に力が抜ける。涙は止まらなかった。理由もなく、ただ溢れてくる。七海は何も言わない。ただ、少しだけ体の向きを変えて、自然にこちらを引き寄せる。抱きしめる、というほど強くはない。でも離れない程度には、しっかりと。
「……寂しい、というのは、理由がなくても起こるものです」
ゆっくりと、背中を撫でられる。大きな手があたたかい。
「……そして、大抵は一人で処理しようとすると、長引きます」
少しだけ、息がこぼれた。泣きながら、でもどこかで納得してしまう。その通りだと思った。理由もないまま溢れてくるそれを、どうにもできなくて、ただ息だけが乱れる。
七海の手は、変わらず一定のリズムで背中を撫でていた。落ち着いた動き。急かさない触れ方。それが逆に、どうしようもなく安心してしまう。
――だめだ。
そう思った瞬間、もう遅かった。気づけば、体が勝手に動いていた。七海のスーツを、ぐっと掴む。そしてそのまま、逃げるみたいに縋るみたいに、胸元に顔を埋める。
「……っ……」
声にならない音が、喉からこぼれる。自分からこんなふうに触れるなんて、ほとんどなかったのに、止められなかった。離れたら、またあの空っぽに戻ってしまう気がして、指先に力が入る。皺になるのも気にせず、ぎゅっと握り込む。
七海は、一瞬だけ動きを止めた。けれどすぐに、何も言わずに腕を回す。今度ははっきりと、「抱き寄せる」力で。
「……ええ」
低く短く、肯定するみたいに返事をされる。拒まれなかったことに、さらに涙が溢れる。肩が震えるのを、そのまま預ける。七海の手が、背中をなぞる。一定で、乱れないリズム。まるで、「ここにいていい」と言われているみたいだった。
「今日は、そのままで構いません」
抱き寄せる腕が、ほんの少しだけ強くなる。背中に回された大きな手があたたかい。
「……あなたが落ち着くまで、ここにいます」
その一言で、張り詰めていた何かが音もなく崩れた。寂しさは、まだある。でもそれを、一人で抱えなくていいと思えた。それだけで、十分だった。胸元に顔を埋めたまま、呼吸を整える。七海の鼓動が、微かに伝わる。規則正しいリズムに合わせるように、少しずつ、呼吸が落ち着いていく。
――大丈夫かもしれない。
そんなふうに思えたのは、久しぶりだった。
「……今夜は……ずっと、そばにいてください……」
自分でも驚くくらい、弱い声が出た。頼ることを覚えていない人間の、ぎこちない願いだった。七海の腕が、一瞬だけ止まる。けれど、それはほんの一拍で、次の瞬間にははっきりと力がこもる。抱き寄せる腕が、少しだけ強くなる。
「……ええ。今夜は離れませんから」
低く落ち着いた声で、迷いのない、短い返事をされる。その言葉だけで、胸の奥の冷たさがじわりとほどけた。背中を撫でる手は、変わらないリズムのまま。でも、その一つひとつが、さっきよりもはっきりと伝わる。ここにいていいと、繰り返し教えられているみたいだった。目を閉じる。七海の体温と、一定の鼓動に包まれる。
――今夜は、大丈夫だ。
そう思った瞬間、意識がふっと緩む。まぶたが、重い。抗おうとする力も、もう残っていなかった。七海のスーツを掴んだまま、少しだけ力が抜ける。それに気づいたのか、背中を撫でる手が、ほんのわずかにゆっくりになる。
「……無理に起きている必要はありません」
その言葉に、最後の緊張がほどけた。意識が、ゆるやかに沈んでいく。遠くなる感覚の中で、抱き寄せられる力が、少しだけ強くなる。逃がさないように、でも苦しくない程度に、守るような抱き方だった。額に、柔らかい感触。軽く触れるだけのキスをされる。
「……おやすみなさい」
かすかに聞こえた声は、驚くほど穏やかだった。それを最後に、意識が途切れる。七海の腕の中で、体の力が完全に抜ける。呼吸が、静かに整っていく。
眠りに落ちたあとも、七海はしばらくそのまま動かなかった。一定のリズムで、背中を撫で続ける。腕の中の重みを確かめるように。確かにここにいると、何度も確かめるように触れる。小さく、息を吐く。そのままもう一度だけ、今度はほんのわずかに長く額に口づける。眠りを妨げないように、そっとすると、それから静かに目を閉じた。
部屋には、穏やかな呼吸だけが残る。夜は何事もなかったかのように、ゆっくりと更けていった。