番外編D ほどける夜

任務を終えた冬の帰り道、夜の空気は思ったより冷たかった。
吐いた息が白くほどけていく。

それをぼんやり眺めながら歩いていると、体の奥に残っていた緊張が、少しずつ遅れて重さになってくる。

疲れている、とは思わなかった。
まだ動ける。
まだ考えられる。
だから問題ない——そう判断していた。

けれど七海の部屋の前に立った瞬間、無意識に肩から力が抜けた。
理由は分からない。
ただ、ここに来ると呼吸が深くなる。
鍵を回して扉を開ける。

「お邪魔します」

部屋の中は静かで、暖かかった。
外とは違う、生活の温度。
その空気に触れただけで、張りつめていた感覚がわずかに緩む。

リビングでは七海がソファに座り、本を読んでいた。
照明の下、影の落ち方まで整っている横顔。
その光景を見た瞬間、不思議なくらい安心してしまう。

「お帰りなさい」

視線を上げずに言う声。
低くて、落ち着いていて、いつも通り。
それだけで十分だった。

「戻りました」

コートを脱ぎ、ソファへ腰を下ろす。
体が沈む。
思っていたより深く。
前屈みになった姿勢のまま、しばらく動けなかった。

そのとき、肩に手が置かれる。
静かな重さ。
掌の温度が、じんわり伝わる。

「……今日は」

七海が言う。

「頑張りすぎです」

否定しようとして、声が出ない。
見上げると、視線が真っ直ぐこちらを見ていた。
責めていない。
ただ、分かっている目。

「歩き方が違いました」

淡々と続ける。

「呼吸も浅い」

そんなところまで見られていたことに、少しだけ照れる。

「自覚は?」
「……あまり」
「でしょうね」

小さく息を吐く。
そのまま七海が隣に座った。
距離が近づく。
膝が触れそうな距離。
逃げようと思えば逃げられるのに、動く気にならない。

「あなたは」

ゆっくり言葉を選ぶ声。

「限界を、自分より後に設定する癖があります」

図星だった。
笑おうとして、うまく笑えない。
七海の手が、頭に触れる。
そっと。
指先が髪をなぞる。
撫でられた瞬間、呼吸がほどけた。

「今日は休みましょう」

低い声。
近い。
思ったより、ずっと近い。

「報告書は明日で構いません」
「でも——」
「だめです」

静かに遮られる。
強くないのに、逆らえない声音。

「今日は、あなたを優先します」

その言葉に、胸が静かに揺れる。
背中に手が回る。
引き寄せられたわけではない。
けれど、気づけば体が傾いていた。
肩にもたれる。
七海の体温が、シャツ越しに伝わる。
温かい。
思っていたより、ずっと。
その瞬間、張りつめていたものが崩れた。
小さく息が漏れる。
七海の手が背中をゆっくり撫でる。
一定のリズム。
落ち着かせるように。
安心させるように。

「……頑張りましたね」

耳元に近い声。
低くて、やわらかい。
その一言で、胸の奥がじんわり熱くなる。

「……そんなこと」

否定しようとして、言葉が続かない。

「ええ」

七海は穏やかに続ける。

「それでも、です」

背中を撫でる手が止まらない。
指先がわずかに髪に触れる。
それだけで、力が抜けていく。
気づけば完全に体重を預けていた。
七海は何も言わない。
当然のように受け止める。
その静けさが、余計に優しい。

「……安心します」

小さく呟く。
少し間があって、

「そうでしょうね」

と返ってきた。

「そのためにいますから」

飾りのない言葉。
だからこそ、胸に落ちる。
指先がそっと手に触れる。
絡められるわけでもない。
ただ、そこにある温度を確かめるように。
眠気がゆっくり降りてくる。
七海の呼吸が近い。
鼓動が静かに伝わる。

「……少し寝てください」

低く囁かれる。

「私がいます」

その言葉を最後に、意識が静かに沈んでいった。
髪を撫でる指の感触だけが、最後まで残っていた。
気づけば、私は七海にもたれたまま動けなくなっていた。
任務の疲れが抜けたというより、力の入れ方を忘れてしまったみたいだった。

背中を撫でる手のリズムが、あまりにも一定で。
安心すると、人はこんなにも無防備になるのかと思う。

呼吸がゆっくり重なる。
七海の胸がわずかに上下するたび、頬に体温が伝わった。

静かだった。
時計の音と、時折グラスの氷が触れ合う小さな音だけ。
それ以外は、何もない。

「……眠れそうですか」

低い声が、すぐ上から落ちる。

「はい」

答える声が思ったより柔らかくて、自分でも驚く。

七海の手が止まる。
一瞬だけ。
それから、もう一度ゆっくり髪を撫でた。
指先が耳の後ろをかすめる。
ほんの些細な接触なのに、体がわずかに反応する。
その動きを、七海は見逃さなかったらしい。

「……すみません」

小さく呟く。

「え?」
「近すぎました」

そう言いながらも、手は離れない。
むしろ、ほんのわずかに力が込められる。

私は顔を上げた。
距離が思ったより近い。
視線が合う。
七海はすぐには逸らさなかった。
珍しく、迷うような沈黙。
何かを測っているみたいな目。

「……七海さん?」

呼ぶと、七海が小さく息を吐いた。

「……今日は」

言葉が途中で止まる。
普段なら絶対に起きない間。

「あなたが、あまりにも無防備なので」

低く続く声。
少しだけ掠れていた。
その瞬間、空気が変わる。

背中に回された手が、ゆっくり引き寄せる。
逃げられないほどではない。
でも、離れる選択肢を奪うくらいには近い。
そして、額が触れそうな距離まで近寄られて。
七海の視線が落ちる。
唇へ。
ほんの一瞬だけ。
すぐに戻る。
理性が働いているのが分かる動きだった。

「……困ります」

かすかな苦笑。

「こういうときに限って、冷静でいられない」

冗談みたいに言うのに、声は本気だった。
私は何も言えず、ただ見上げる。
七海の指が頬に触れる。
触れるだけで、撫でない。
それ以上進まないよう、自分で制御しているみたいに。

「……休ませるつもりだったんですが」

小さく息を吐く。

「私の方が、落ち着かなくなってしまいました」

その正直さに、胸が少し熱くなる。
距離は近いまま。
沈黙が伸びる。
時間がゆっくりになる。
そして七海は、目を閉じた。

——キスするのかと思った。

けれど。
額に、軽く触れるだけで止まる。
それ以上は来ない。
来ないことが、逆に甘かった。

「……今日は、ここまでにしておきます」

低く言う。
自分に言い聞かせるように。

「あなたが疲れているときに、私の都合を優先するのは」

苦笑して。

「……フェアではない」

そう言って、少しだけ距離を取る。
でも手は離さない。
指先が絡む。
逃がさない温度。

「ですから」

七海が静かに続ける。

「次は、あなたが元気なときに」

視線が合う。
ほんのわずかに笑う。

「改めて、続きにしましょう」

その言葉に、心臓が大きく鳴った。
七海は何事もなかったように背中を撫で始める。
さっきと同じリズム。
同じ優しさ。
なのに、触れる温度だけが少し違っていた。

眠気が戻ってくる。
安心と、ほんの少しの期待を残したまま。
私は七海に寄りかかりながら、再び目を閉じた。

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