吐いた息が白くほどけていく。
それをぼんやり眺めながら歩いていると、体の奥に残っていた緊張が、少しずつ遅れて重さになってくる。
疲れている、とは思わなかった。
まだ動ける。
まだ考えられる。
だから問題ない——そう判断していた。
けれど七海の部屋の前に立った瞬間、無意識に肩から力が抜けた。
理由は分からない。
ただ、ここに来ると呼吸が深くなる。
鍵を回して扉を開ける。
「お邪魔します」
部屋の中は静かで、暖かかった。
外とは違う、生活の温度。
その空気に触れただけで、張りつめていた感覚がわずかに緩む。
リビングでは七海がソファに座り、本を読んでいた。
照明の下、影の落ち方まで整っている横顔。
その光景を見た瞬間、不思議なくらい安心してしまう。
「お帰りなさい」
視線を上げずに言う声。
低くて、落ち着いていて、いつも通り。
それだけで十分だった。
「戻りました」
コートを脱ぎ、ソファへ腰を下ろす。
体が沈む。
思っていたより深く。
前屈みになった姿勢のまま、しばらく動けなかった。
そのとき、肩に手が置かれる。
静かな重さ。
掌の温度が、じんわり伝わる。
「……今日は」
七海が言う。
「頑張りすぎです」
否定しようとして、声が出ない。
見上げると、視線が真っ直ぐこちらを見ていた。
責めていない。
ただ、分かっている目。
「歩き方が違いました」
淡々と続ける。
「呼吸も浅い」
そんなところまで見られていたことに、少しだけ照れる。
「自覚は?」
「……あまり」
「でしょうね」
小さく息を吐く。
そのまま七海が隣に座った。
距離が近づく。
膝が触れそうな距離。
逃げようと思えば逃げられるのに、動く気にならない。
「あなたは」
ゆっくり言葉を選ぶ声。
「限界を、自分より後に設定する癖があります」
図星だった。
笑おうとして、うまく笑えない。
七海の手が、頭に触れる。
そっと。
指先が髪をなぞる。
撫でられた瞬間、呼吸がほどけた。
「今日は休みましょう」
低い声。
近い。
思ったより、ずっと近い。
「報告書は明日で構いません」
「でも——」
「だめです」
静かに遮られる。
強くないのに、逆らえない声音。
「今日は、あなたを優先します」
その言葉に、胸が静かに揺れる。
背中に手が回る。
引き寄せられたわけではない。
けれど、気づけば体が傾いていた。
肩にもたれる。
七海の体温が、シャツ越しに伝わる。
温かい。
思っていたより、ずっと。
その瞬間、張りつめていたものが崩れた。
小さく息が漏れる。
七海の手が背中をゆっくり撫でる。
一定のリズム。
落ち着かせるように。
安心させるように。
「……頑張りましたね」
耳元に近い声。
低くて、やわらかい。
その一言で、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……そんなこと」
否定しようとして、言葉が続かない。
「ええ」
七海は穏やかに続ける。
「それでも、です」
背中を撫でる手が止まらない。
指先がわずかに髪に触れる。
それだけで、力が抜けていく。
気づけば完全に体重を預けていた。
七海は何も言わない。
当然のように受け止める。
その静けさが、余計に優しい。
「……安心します」
小さく呟く。
少し間があって、
「そうでしょうね」
と返ってきた。
「そのためにいますから」
飾りのない言葉。
だからこそ、胸に落ちる。
指先がそっと手に触れる。
絡められるわけでもない。
ただ、そこにある温度を確かめるように。
眠気がゆっくり降りてくる。
七海の呼吸が近い。
鼓動が静かに伝わる。
「……少し寝てください」
低く囁かれる。
「私がいます」
その言葉を最後に、意識が静かに沈んでいった。
髪を撫でる指の感触だけが、最後まで残っていた。
気づけば、私は七海にもたれたまま動けなくなっていた。
任務の疲れが抜けたというより、力の入れ方を忘れてしまったみたいだった。
背中を撫でる手のリズムが、あまりにも一定で。
安心すると、人はこんなにも無防備になるのかと思う。
呼吸がゆっくり重なる。
七海の胸がわずかに上下するたび、頬に体温が伝わった。
静かだった。
時計の音と、時折グラスの氷が触れ合う小さな音だけ。
それ以外は、何もない。
「……眠れそうですか」
低い声が、すぐ上から落ちる。
「はい」
答える声が思ったより柔らかくて、自分でも驚く。
七海の手が止まる。
一瞬だけ。
それから、もう一度ゆっくり髪を撫でた。
指先が耳の後ろをかすめる。
ほんの些細な接触なのに、体がわずかに反応する。
その動きを、七海は見逃さなかったらしい。
「……すみません」
小さく呟く。
「え?」
「近すぎました」
そう言いながらも、手は離れない。
むしろ、ほんのわずかに力が込められる。
私は顔を上げた。
距離が思ったより近い。
視線が合う。
七海はすぐには逸らさなかった。
珍しく、迷うような沈黙。
何かを測っているみたいな目。
「……七海さん?」
呼ぶと、七海が小さく息を吐いた。
「……今日は」
言葉が途中で止まる。
普段なら絶対に起きない間。
「あなたが、あまりにも無防備なので」
低く続く声。
少しだけ掠れていた。
その瞬間、空気が変わる。
背中に回された手が、ゆっくり引き寄せる。
逃げられないほどではない。
でも、離れる選択肢を奪うくらいには近い。
そして、額が触れそうな距離まで近寄られて。
七海の視線が落ちる。
唇へ。
ほんの一瞬だけ。
すぐに戻る。
理性が働いているのが分かる動きだった。
「……困ります」
かすかな苦笑。
「こういうときに限って、冷静でいられない」
冗談みたいに言うのに、声は本気だった。
私は何も言えず、ただ見上げる。
七海の指が頬に触れる。
触れるだけで、撫でない。
それ以上進まないよう、自分で制御しているみたいに。
「……休ませるつもりだったんですが」
小さく息を吐く。
「私の方が、落ち着かなくなってしまいました」
その正直さに、胸が少し熱くなる。
距離は近いまま。
沈黙が伸びる。
時間がゆっくりになる。
そして七海は、目を閉じた。
——キスするのかと思った。
けれど。
額に、軽く触れるだけで止まる。
それ以上は来ない。
来ないことが、逆に甘かった。
「……今日は、ここまでにしておきます」
低く言う。
自分に言い聞かせるように。
「あなたが疲れているときに、私の都合を優先するのは」
苦笑して。
「……フェアではない」
そう言って、少しだけ距離を取る。
でも手は離さない。
指先が絡む。
逃がさない温度。
「ですから」
七海が静かに続ける。
「次は、あなたが元気なときに」
視線が合う。
ほんのわずかに笑う。
「改めて、続きにしましょう」
その言葉に、心臓が大きく鳴った。
七海は何事もなかったように背中を撫で始める。
さっきと同じリズム。
同じ優しさ。
なのに、触れる温度だけが少し違っていた。
眠気が戻ってくる。
安心と、ほんの少しの期待を残したまま。
私は七海に寄りかかりながら、再び目を閉じた。