守られることを許した日
目を覚ました瞬間、喉の奥に鋭い痛みが走った。
息を吸っただけでひりついて、反射的に呼吸が浅くなる。胸の奥に熱がこもっているみたいで、肺に空気を入れるたびにじわりと焼ける感覚が広がっていく。
しばらくそのまま、動けなかった。
天井を見つめているのに、輪郭がどこか曖昧で、視界の焦点が合わない。身体は布団に沈み込んだまま、まるで自分のものじゃないみたいに重い。
――風邪だ。
遅れて、そう理解する。
呪いでもなければ、術式の影響でもない。ただの体調不良。ありふれていて、どうしようもなく、そして厄介なものだった。
任務での負傷なら、まだいい。
どこがどの程度損傷しているのかを把握して、動けるかどうかを判断すればいい。術式の影響なら、それに応じた対処ができる。
けれどこれは違う。
判断が鈍る。思考がまとまらない。なにより、身体が言うことをきかない。
ただ弱っているだけの状態だ。それが、妙に嫌だった。
――こんなの、見せたくない。
ぼんやりとした意識の中で、最初に浮かんだのはその感情だった。
同僚として、長い時間を一緒に過ごしてきた。
任務のたびに背中を預けて、互いの強さも、限界も、嫌というほど見てきた関係だ。
恋人になってからも、それは大きく変わらなかった。
隣に立てる自分でいたかった。
力の強さは彼に及ぶべくもないけれど、気持ちの上では対等でいられる自分でいたかった。
だからこそ、こういう――ただ弱っているだけの姿は、見せたくなかった。
強くもなんともない、戦っているわけでもない、ただ、ひどく情けないだけの状態。
そんな自分を、彼に見られるのが、どうしても嫌だった。
そんな私を日常的に見ている彼からは、「もっと肩の力を抜けばいいのに」などと、苦笑と共に揶揄されることも多かったけれど。
女らしいやわらかさよりも、自分のプライドの方を優先させ続けた結果が、もしかしたらこれなのだろうかーー。
甘え下手で、人に頼るのも得意ではなくて、誰かに任せるよりは自分でやってしまった方が早いなんて、無駄に自分でたくさんのことを抱えすぎてきたから、休む羽目になってしまったのかも知れない。
そんなことを熱に浮かされた頭でぼんやり考えていると、枕元のスマートフォンが、かすかに震えた気がした。
視線だけ向ける。画面が淡く光っているのが分かる。誰からの連絡か、確認するまでもなかった。
――返さなきゃ。
そう思うのに、指先に力が入らない。
画面に触れることすら億劫で、そのまま視線を逸らす。
きっと、気づいている。
返信がないことも、既読がつかないことも。
それでも、どうしても返せなかった。こんな状態を知られたくなかったから。
そのまま、意識がゆっくりと沈みかけたとき、玄関の鍵が回る音がした。
一瞬、夢かと思った。
けれど、はっきりとした現実の音だった。
心臓が、どくりと大きく跳ねる。
合鍵は渡している。
任務の都合で、互いの家に出入りできるようにしているだけのことだ。特別な意味を持たせたわけじゃない。
だからこそ、普段は使われない。
――連絡が取れないから、来た。
その結論に至るまでに、時間はかからなかった。
足音が、迷いなく近づいてくる。
逃げ場はない。
ドアが開く音と同時に、空気がわずかに動いた。
「……マジで?」
低く落ちた声。それだけで、誰か分かる。
視界の端に、見慣れた長身が入った瞬間、反射的に布団を引き上げて顔を隠した。
「……来なくていいのに……」
声は、自分でも驚くほどかすれていた。
言葉になっているのかも分からないくらい弱い。
「なんで」
間を置かずに返ってくる。
いつも通りの、軽い調子だった。
それが逆に、どうしようもなく恥ずかしい。
「……こんな状態、見せたくない……」
なんとか言葉にする。
だけど、途中で息が途切れて、うまく続かない。喉が痛くて、声が出ない。
情けないと思う。
任務でどれだけ消耗しても、こんな風にはならないのに。
ーーけれど。
「それ、今さらじゃない?」
少し呆れたような声が、すぐ近くに落ちた。マットレスが沈む。ベッドの横に腰を下ろしたらしい。
「今まで散々、ボロボロのとこ見てきたけど」
「……あれとは、違う……」
やっとの思いで返す。
あれは、戦いの結果だった。限界までやって、それでも立っているための消耗。でもこれは違う。
「これは、ただの風邪だし……」
言葉にした瞬間、胸の奥がひどく重くなる。
強さとは関係ない。技術とも関係ない。ただ、弱っているだけ。
同僚としても、恋人としても、そんな自分を見せたくなかった。
その沈黙を、少しだけ置いて。
「……ああ、そっちね」
納得したような声がした。
次の瞬間、額に触れる指先。ひやりとした感触に、思わず目を閉じる。
「確かにこれは、見たことないかも」
淡々とした言い方だった。
評価でも、同情でもなく、ただ事実として受け取っているだけの声。
「……帰って……」
かすれる声で言うと、
「やだよ」
即答だった。あまりにも迷いがない言い方。
「うつるから……」
「うつるならうつるでいいって」
軽く肩をすくめる気配。
「それでどうにかなるほど弱くないし」
「でも、任務……」
忙しいのは、知っている。
誰よりも強くて、誰よりも頼られて、それでも平然とこなしている人だけれど、それでも人間である以上、体調を崩せば支障は出るはずだ。
だから、近づいてほしくなかった。
彼が守れたはずの人が守られなくなるのが、自分のせいで彼になんらかの支障が出るのが、一番嫌だった。
そう思って言ったのに。
「それよりさ、今のなまえ、一人にする方が無理」
少し低くなった声で、短く、はっきりとした言い方だった。
冗談でも、軽口でもない。その一言が、まっすぐに落ちてくる。
言葉に詰まる。胸の奥で、否応なくなにかがほどけてしまう。
「……迷惑、かけたくない」
やっとの思いで出した言葉に、
「迷惑じゃないって」
静かに返ってくる。
「同僚でも、恋人でも、どっちでも関係ないでしょ、こういうのは」
その言い方があまりにも自然で、息が止まる。自分だけが、線を引いていたのだと気づく。
同僚としての距離と、恋人としての距離。
そのどちらにも、意味を持たせていたのは自分の方だった。
けれど彼は、最初からそんなものを気にしていない。
ただ、今どうするかだけを見ている。
水を差し出されて、薬を確認されて、体温を測られて。
どれも迷いのない手つきで、ただ必要なことを淡々とこなしていく。
その自然さに、抵抗する気力が削がれていく。
「安心して寝な」
額にタオルが乗せられる。
「起きたら少しマシになってるよ」
その声が近くて、やわらかい。
任務のあととは違う、どうしようもない無防備さの中で。
それでも、隣に気配があることが、思っていたよりも安心できて。
――ああ。
こんな風に、ただ弱っている自分を誰かに預けることなんて、今までなかった。
そのことに少しだけ戸惑いながら、それでも力は抜けて、意識はゆっくりと沈んでいった。
目を覚ましたとき、空気の重さが少しだけ変わっていた。
熱はまだ残っているけれど、昨日ほどではない。身体のだるさも、少しだけ軽くなっている。
ぼんやりと視線を動かすと、ソファに長い足を投げ出している姿が見えた。
そのまま、眠っている。あまり見ることがない、無防備な格好。
その光景を見た瞬間、昨日の記憶が一気に蘇る。
――全部、見られた。
あの状態も、あの声も。思わず、顔を覆ってしまう。
彼は恐らくなんとも思っていないのに、羞恥で指先に触れる頬がまだ少し熱かった。
「……最悪……」
小さく呟いたつもりだった。
「なにが?」
すぐに返事が来て、びくりと肩が跳ねる。
いつの間にか目を開けて、彼がこちらを見ていた。
「起きた?」
ゆっくり身体を起こしながら、軽く伸びをする。
その仕草がいつも通りで、余計に現実感が増す。
「……昨日のこと、忘れて」
視線を逸らしたまま言うと、あっさり言われてしまった。
「無理でしょ。普通にレアだったし」
「やめて……」
情けない声が出る。けれど彼は、少しだけ口元を緩めたあと、ふと表情を変えた。
「でもさ、なまえが頼ってくれたの、ちょっと嬉しかったけど」
からかいじゃなくて、静かに置かれた、本音みたいな言葉。
一瞬、言葉に詰まる。
何も返せないままいると、額に手が当てられる。昨日と同じ仕草だった。
反射的に身を引こうとして、ほんの少し遅れる。
「まだちょっとあるね」
「……もう大丈夫だから……」
「大丈夫じゃないでしょ」
即座に否定される。
「今日も大人しくしてな」
当然みたいに言って、そのまま居座る気配だった。
「……帰らないの」
「帰る理由ある?」
軽く首を傾げられる。
「まだ治ってないじゃん」
その言い方があまりにも自然で、言い返せない。
少しだけ視線を逸らして、小さく息を吐く。
迷ったけれども、彼がいてくれる安心感には勝てなくて、少しだけ、甘えたような声が出てしまう。
「……じゃあ、そばにいて」
「うん」
短く頷く気配がして、布団が整えられる。その距離が、昨日よりも少しだけ近い。
でももう、それを強く拒む理由は見つからなかった。
同僚としてでも、恋人としてでも、どちらにしても、この距離はもう変わってしまっている。
隣にある体温が、当たり前みたいに近くて。
それを受け入れている自分がいることに静かに気づきながら、私はもう一度目を閉じた。
風邪を引いているはずなのに、胸の奥は不思議なくらい静かでーーそれが、少しだけ心地よかった。