もっと甘えさせて

浴室の中は、最初からゆるやかな空気で満たされていた。

白くやわらかな湯気が、空間のすべてを曖昧にしている。輪郭がほわほわに溶けて、境界がぼやけて、現実の重さだけが少し遠くに押しやられているような、そんな感覚。

その中で、隣にある体温だけがやけに確かだった。
私は肩までお湯に沈みながら、ゆっくりと息を吐く。

「はぁ……」

意識しないまま零れた声に、すぐ横で肩を揺らす気配があった。
隣にいる男は面白そうに、くつくつと喉の奥から笑っている。

「完全にとろけてるじゃん」
「うるさい……」

返す声に力は入らない。
反射的に言い返しただけで、それ以上続ける気力は残っていなかった。

お湯の中で指先がふわりと浮かび、また沈む。その単純な動きすら、今日はどこか遠く感じる。

「今日ずっとそんな顔してたよ」

濡れた頬を撫でながら、軽い調子のまま発される言葉に、私はほんの少しだけ眉を寄せる。

「見てたの」
「そりゃね。わかりやすいし」

なまえはすぐ顔に出るんだよと、さらっと言われて、言い返そうとしてやめる。
否定するほどの余裕もなければ、隠し通す気力もなかった。
そのまま、頬をお湯に預けるみたいに沈める。

「……疲れた」

ぽつりと零れた声は、思っていたよりも素直だった。
一瞬だけ、間があく。

「うん、知ってる」

返ってきた声は、さっきよりも少しだけやわらかい。
その変化に気づいてしまって、少しだけ視線を上げると、こちらを見ていた目がふっと細くなる。

「やっと言った」
「……別に」
「別に、じゃないでしょ」

軽く言いながら、当たり前みたいに手が伸びてくる。肩に触れられて、そのままほんの少しだけ引き寄せられる。
拒む理由は、もう見つからなかった。むしろ――それを待っていたような気すらして、少しだけ困る。

「……もうちょっと、こっち来て」

気づけば、口にしていた。自分でも驚くくらい、躊躇いのない声だった。
肩に置かれた手を、前に回すように自分で引き寄せる。
ぐるりと力強い腕が囲んでくるのに安堵しながら、素直にその中にすっぽりと収まった。
一拍だけ間があってから、またくつくつと笑われる。

「はいはい、いくらでもどうぞ」

背中に触れる体温が、一段近くなる。お湯の温度と混ざり合うようにじんわりと広がっていく、肌と肌が触れ合う直接的な温もり。
そのまま、少しだけ体の力を抜いて預ける。

「なんだ、できんじゃん」
「……今日は、いいの」
「へぇ?」

面白がるような声が耳元に落ちる。
でもそれ以上からかってくるわけでもなく、ただそこにある腕の温度だけが、静かに存在を主張していた。

「なんか……頑張るの、疲れた」

言葉にしてしまうと、それだけで力が抜ける。
ずっと抱えていたものをそっと手放すみたいに、胸のつかえが取れた。

「知ってるって」

短く返される。そのくせ、指先は優しくて。
やわらかく引き寄せられ抱き締められて、思わず少しだけ身をすくめる。

「きゃ、なに」
「甘やかしてんの」
「……ずるい」
「どこが」
「……こういうの」

言いながら、無意識に体を寄せてしまう。
自分から近づいていることに気づいて、ほんの少しだけ頬が熱くなる。
でも、もう引く気にはなれなかった。

「ほら、もっと来なよ」
「……いいの?」
「いいに決まってんじゃん」

即答だった。
迷いもなく、軽く言い切るその声音に、少しだけ安心する。
そのまま、もう一歩だけ距離を詰める。
触れる面積が増えて、背中から伝わる体温が、じわりと広がっていく。

「……あったかい」
「そりゃどうも」

軽い返事のまま、腕は離れない。
むしろ、ほんの少しだけ力がこもる。
逃げられないほどじゃないのに、離れにくい距離。
その曖昧さが、やけに心地いい。

「……ねぇ、悟」
「ん?」
「もうちょっと、このままでいて……」

小さく言うと、すぐに返ってくる。

「好きなだけどうぞ」

あまりにもあっさりしていて、少しだけ笑ってしまう。
でも、その軽さが逆に優しく感じられる。まるで何も背負わせないみたいな声音に聞こえた。

「なんでそんな余裕なの」
「余裕あるから?」
「むかつく……」

そう言いながら、私は結局離れなかった。
むしろ、心地よさに少しだけ顔を寄せてしまう。
顔の近くの肩口に触れる距離まで近づいて、呼吸が近くなる。

「ほら、甘えてきてる」
「……うるさい」
「かわいいって言ってんの」
「言ってない」
「言ってる言ってる」

くすくす笑いながら、指先が頬に触れる。そのまま顎までたどられて、軽く顔を上げられる。
逃げようと思えば逃げられる距離。でも、私は動けなかった。

視線が合う。湯気越しにぼやけた輪郭の中で、その青い目だけが妙にくっきりしていた。

「……なに」
「別に」

そう言いながら、少しだけ距離が縮まる。
ゆっくりと、確かめるみたいに息が触れ合う。
そのまま、軽く唇が重なった。触れるだけのキス。
短くて、やわらかくて、でも逃がさない温度が伝わってくる。

離れたあと、ほんの少しだけ間が空いた。

「……ずるい」
「だからなにが」

小さくこぼすと、同じ調子で返される。
でも今度は、そのままもう一度引き寄せられた。さっきよりも近く、少しだけ深く口づけられる。

お湯の温度とは違う熱が、じわりと広がる。
逃げる気は、もうなかった。むしろ、少しだけ応えるみたいに力を抜く。

その瞬間、腕の力がほんの少しだけ強くなる。
それがわかって、なんだか悔しくて、でも安心する。

「……もう無理」
「なにが」
「ちゃんとするの」
「しなくていいじゃん」

あっさりとした答え。それだけで、何かがほどける。
そのまま、額を預ける。ふたりの呼吸が、一番近くで混ざりあう。
彼の腕の中だけが、なにも考えなくていい場所のように思えた。

「……悟、もうちょっと、ほしい」
「ん」

短い返事だった。でも腕は離れない。
そのまま、また軽く触れられる。
今度はさっきより自然に、抵抗もためらいもなく、ただそこにあるものを、そのまま受け取るみたいな口づけだった。
湯気の中で、時間がゆっくり溶けていく。

なにも頑張らなくていい時間。
なにも背負わなくていい時間。
ただ甘えていていいと許される場所。

それを、もう拒む理由はなかった。
このままもう少しだけ、彼には全部預けてもいいと思えた。