疲れた夜に大好きなひとに甘やかされる話



玄関の鍵が開く音がして、わたしはソファに寝転がっていた身体を起こした。

「ただいまー」

聞き慣れた声がする。軽快だけど、低くて艶のある男のひとらしい声。それだけで、さっきまで身体の奥に残っていた妙な緊張が少しほどけるのだから、我ながら単純だと思う。

「おかえり」

返事をすると、廊下の向こうから悟くんが顔を出した。黒い服のまま、片手には見覚えのない紙袋を提げている。

「なにそれ」
「お土産♡」
「また甘いもの?」
「僕がお土産で甘いもの以外買って帰ってきたことある?」

そう言われれば、ない気がする。そう言おうとしたら、先に悟くんが笑った。

「ないでしょ」

そう言いながら悟くんが紙袋から出してきたのは、小さな箱だった。蓋を開けると、丸いケーキが二つ、きっちり並んでいる。彼が好きそうな、甘そうな生クリームと果物がたっぷり盛られている可愛いケーキと、艶のあるチョコレートが美しくコーティングされている上品なケーキ。チョコレートはわたしの好みを考えて選んできてくれたのかと思う。

「どっちがいい?」
「こっち」
「じゃ、僕こっちね」

チョコレートの方をわたしが選ぶと、やっぱり彼も即決だった。わたしが選んだ方に未練がある様子もなく、悟くんはさっさと隣に座る。ソファが少し沈んで、距離が途端に近くなった。付き合い始めの頃は、そのたびに妙に意識していたのに、今では彼の身体が隣にあることの方が自然になっている。悟くんから、外の冷たい夜の空気と、いつもの柔らかい香りがした。

「今日どうだった?」

フォークを渡されながら聞かれる。

「ん? 普通」
「普通って便利な言葉だよねえ」
「だって普通だったんだもん」

一口食べる。チョコレートクリームが思ったより軽くて、下の生地はしっとりしていた。滑らかに口の中で溶けていく。

「おいしい」

そう言うと、悟くんが自分の分を食べながらこちらを見た。

「でしょ? 絶対好きだと思った」
「なんで?」
「こういうの好きじゃん」

あまりにも当たり前のように言われて、少しだけ手が止まる。好きなケーキの傾向なんて、自分でも詳しく説明した覚えがない。けれどこの人は、いつの間にか知っているみたいだった。何を食べれば機嫌がよくなるとか、 疲れた日はあったかいお風呂に長く入るとか、冷房が効きすぎた部屋ではすぐ足が冷えるとか、眠る前は少しだけ部屋が暗い方が好きだとか。そんな人生を左右するほどではない小さなことばかりを、まるで宝物を扱うかのように大事にしてくれる。

「……悟くんって、変なこと覚えてるよね」
「変なこと?」
「わたしが好きなものとか」
「それ変なの?」

悟くんは本当に不思議そうな顔をして首を傾げた。

「好きな人の好きなもんくらい覚えるでしょ」

そして、そんな風にさらっと言われてしまう。本人はもうケーキに戻っていて、また美味しそうにもぐもぐとほっぺたを動かしている。こういうことを言うときだけ、まったく照れがない様子に、わたしの方が少し動揺してしまう。

「そういうの、急に言うのやめて」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「へえ」

悟くんがにやりと笑う。

「かわい〜」
「もう」

食べ終えてフォークを置くと、その手を悟くんに取られた。指先をつままれて、そのまま掌を重ねられる。

「冷た」
「悟くんがあったかいんでしょ」
「そう?」

そのまま、1本1本指を絡められた。大きな手だった。初めて触れたときにも思ったけれど、何度触れてもそう思う。指が長くて、掌が広い。たくさんの人を守ってきた手。包まれると、自分の手がずいぶん小さく見えた。
悟くんは絡めた指を弄びながら、テレビを見始めた。何かを話すでもなく、ただ握ったまま離さない。そのまま背もたれに身体を預けると、悟くんも少し姿勢を崩した。

「疲れた?」
「ちょっとだけ」
「こっち来る?」

何を言われたのか考えるより先に、身体が動いた。悟くんの肩へ頭を乗せる。

「素直じゃん」
「疲れてるから」
「はいはい」

腕が背中に回る。胸元へ引き寄せられると、頬に服の柔らかい感触が触れた。耳を澄ませば、微かに心臓の音がする。規則正しくて、あたたかい。さっきまで口の中に残っていた甘いチョコレートクリームの味と、悟くんの匂いと、背中にある手の重さ。彼の全部が心地よかった。

「……なんかね」
「ん?」
「こうしてると眠くなる」
「僕、睡眠導入剤?」
「うん。メラトニンとか、トリプトファンとか、なんかそんな感じのやつ」
「失礼だなあ」

そう言いながら、背中を撫でる手は止まらなかった。ゆっくりゆっくり、何度も同じ場所を往復する。眠りかけた猫でも撫でるような手つきだった。

「悟くん」
「なあに」
「もうちょっと強くして」

一瞬だけ手が止まった。

「……なにを?」

声が笑っている。顔を上げると、案の定、口元がにやついていた。

「抱きしめるの」
「なんだ」
「なんだって何」
「いやぁ、別に?」
「悟くん?」
「はいはい」

腕に力が入る。ぎゅ、と身体が密着した。それだけで、胸の奥まで満たされていく。彼にこうされると安心する。言葉にすると、それだけだったけれど、その「それだけ」が、わたしにはとても大事なものだった。好きな人の身体がちゃんとここにあって、触れればあたたかくて、名前を呼べば返事があって、抱きしめてほしいと言えば、こうして腕が回ってくる。
目には見えない気持ちを、わたしはときどき疑う。でも体温は疑えない。触れた手も、背中を撫でる指も、頬に触れる服の感触も、全部確かなものとしてここにある。そのことが、わたしにとってはたまらなく嬉しかった。

「ねえ」

頭の上から声が降ってきた。

「なに?」
「今日、泊まってく?」

思わず顔を上げた。

「うん。このまま、いい?」
「もちろん」

笑うと、悟くんも笑った。また胸元へ引き戻される。

「明日の朝なんか作ってよ。僕なまえの作るごはん、すごく好き」
「そこまで言われたら、作らないわけにはいかないなぁ」
「楽しみ」
「材料ある?」
「あ、そう言えば買ってくるの忘れた」
「じゃあ一緒に買いに行く?」
「お、なまえと買い物デートだ」
「大げさ」

悟くんは朝ごはんをねだったくせに、ぎゅうと抱きしめたまま、わたしを立たせようとはしなかった。むしろさっきより深く抱き込んでくる。

「悟くん、このままじゃご所望の朝ごはん作れないよ」
「んー……も少しこのままで」

すり、と顔を寄せられる。たぶん、こういうものなのだと思った。幸せというものは、もっと大きくて、特別な出来事だと思っていた。けれど実際には、甘いものがおいしいとか、好きな人の身体があたたかいとか、眠いときに安心して目を閉じられるとか、案外そんな、触れられるものの中にある。
目を閉じると、背中に置かれた悟くんの手が、またゆっくり動いた。明日になってもわたしはきっと、喜びと安らぎを与えてくれるこの体温を覚えているのだろうと思った。


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