言葉にならない愛を抱えて

 ――あれ、私、どうしてたんだっけ。

 ぼんやりとした意識の中で、最初に触れたのは体温だった。

 逃げ場をなくすように回された腕と、すぐ近くにある呼吸の気配。隣には、恵の顔があった。眠っているはずなのに、わずかに眉を寄せていて、どこか無防備とは言いきれない。

 けれど、閉じられた目の際から伸びる男の子にしては長いまつ毛も、通った鼻筋も、少し青白い肌も、こんなに近くで見るとやっぱり綺麗だと思う。

 ――昨日、泣いたんだった。

 思い出した瞬間、胸の奥がじんわりと熱を持つ。

 きっかけは、ほんの些細なことだった。
 恵は何を考えているのかわからないとか。付き合っているのに、全然好きだって言ってくれないとか。

 本当はわかっている。言葉にしなくても、彼がちゃんと気にかけてくれていることも、私を大事にしてくれていることも。
 それでも、言葉で確かめたかった。気づけば涙が止まらなくなっていて、恵を困らせていた。

「……俺の気持ち、本当に伝わってなかったのか?」

 低く、少し強めの声。珍しく感情を滲ませて、恵が私を見下ろしていた。

「俺が、いつもお前のこと考えてたのも?」

 問い詰めるようでいて、どこか戸惑っている響き。
 私はうまく答えられなくて、ただ首を振って、泣くことしかできなかった。そしてしばらくの沈黙のあと。

「……何すればいいんだ」

 ぽつりと落ちた声は、諦めじゃなくて。

「言えよ。その通りにしてやる」

 逃げない、っていう意思だった。その真っ直ぐさに、胸の奥がぐらつく。
 私はもう、本当の気持ちを誤魔化せなかった。

「……好きって、言ってほしい……」

 震えた声で言うと、恵は一瞬だけ言葉に詰まった。けれど、逸らさなかった。

「……好きだ」

 たどたどしく、それでもはっきりと。

「可愛いと思ってるし、……一緒にいられて、助かってる」

 慣れていないのがわかる口調で、それでも一つずつ確かめるみたいに紡がれる言葉。
 それだけで、もう充分なはずなのに。

「……あとは?」

 低く、追い詰めるように続けられる。

「この際だから、してほしいこと全部言え」

 逃がさない視線に絡め取られて、息が詰まる。恥ずかしくて、怖くて、それでも。

「……きす、してほしい」

 小さく零れたその言葉に、間はなかった。

 唇が、重なる。最初は、触れるだけのはずだったのに。
 すぐに深くなって、角度を変えられて、また重ねられる。息を吸う間もなく、何度も。

「……ん、っ」

 苦しくなって、わずかに顔を逸らそうとすると、すぐに追いかけられる。
 顎に触れた指が、逃げ道を塞ぐ。唇を離してくれない。さっきまでの静かな恵とは、まるで別人みたいだった。

 でも、嫌じゃない。むしろ、離されたくないと思ってしまう自分がいる。

「……ま、待って……」

 やっとのことで絞り出した声に、ほんの一瞬だけ止まる。けれど。

「……お前が、してほしいって言ったんだろ」

 低く、少し掠れた声。次の瞬間には、また唇が落ちてくる。さっきよりも、容赦なく。呼吸も思考も、全部奪われるみたいに。

 重ねられるたびに、体の力が抜けていく。逃げたいわけじゃないのに、追いつかなくて、でも離れたくなくて。
 ぐちゃぐちゃになったまま、ただ受け入れるしかなくなる。

 やっと解放されたときには、まともに息もできなくなっていた。
 肩で呼吸をしながら見上げると、恵がこちらを見ていた。さっきまでの熱をまだ残したまま、それでも少しだけ静かに。

「……苦しかったか」

 小さく問われて、こく、と頷く。
 すると、ほんのわずかに眉を寄せて。それから、そっと額を寄せてきた。

「……でも、嫌じゃねえんだろ」

 断定するでもなく、ただわかっているみたいに言う。

 ずるい、と思う。こんなの、否定できるわけがない。
 何も言えずにいると、今度は、さっきまでとは違う触れるだけの、やわらかいキスが落ちてきた。
 まるで、全部わかったうえで、最後に優しく触れるみたいに。

 ――あとは、覚えていない。ただ、満たされたまま眠りに落ちたことだけが、残っている。

 指先でそっと眠ったままの頬に触れると、恵はわずかに眉を寄せた。

「……なまえ」

 寝ぼけた声で名前を呼んで、そのまま引き寄せられる。逃げ場のない腕の中に、すっぽりと収まる。
 肩口にかかる息と、強い腕の感触。言葉は少ない人だ。きっと、これからも何度も不安になるかもしれない。

 それでもこうして触れてくる温度や、離さない腕や、名前を呼ぶ声が、全部教えてくれる。

 ――私は、ちゃんと愛されている。

 だから今は、ただ、この人の腕の中で、そのまま受け取っていようと思った。
 触れてくる体温も、離さない力も、なにも言わなくても伝わってくるのだから。

 それだけで、私は静かに満たされていくのを感じていた。