快楽詩

 五条の部屋の中は、夜の気配がゆっくりと満ちていた。
 窓の外では街の灯りが滲み、淡い光だけがカーテン越しに差し込んでいる。
 音はほとんどないはずなのに、静けさだけがやけに輪郭を持って、部屋の中に落ちていた。

 私はソファに腰を下ろしたまま、小さく息を吐いた。
 日中の張りつめていたものがほどけていく感覚が、遅れて身体に広がった。

 視線だけを動かす。すぐそばにいるはずの男は、なにも言わない。それでも、大きくて大らかな存在感を持ってそこにいるとわかる。
 今は気配だけが、静かに寄り添うように落ちてきている。

 ——不思議な人だと思う。

 五条悟という男と付き合うようになって、色々と見えてきたものがある。

 賑やかで軽くて、どこか掴みどころがないくせに、こうして二人きりになると、驚くほど静かになる。
 沈黙を持て余すこともなく、ただそこに在ることを許してしまうような、そんな落ち着き方をする。ーーなのに。

「なに、そんなじっと見て」

 唐突に声が落ちてきて、思わず瞬きをする。
 視線は外したままのくせに、こちらのことはちゃんとわかっているらしい。

 全ての感覚を持って、ありとあらゆる事象を感知しているように見える。隙を作らないことに、慣れすぎているのだろうかとも思う。

「別に」
「嘘。今、なんか考えてたでしょ」

 軽い声音だった。からかうようでいて、どこか余裕がある。そのくせ、踏み込みすぎない。
 私は少しだけ肩をすくめて、視線を逸らした。

「……悟って、静かだなって」
「は?」

 一拍遅れて、短く笑う気配がする。

「そんなこと、初めて言われたんだけど」
「そう?」
「だって普段の僕見ててそれ思う?」
「全然思わない」
「でしょ」

 あっさりと返されて、少しだけ可笑しくなる。
 けれど、それでもやっぱり、今のこの時間は嘘じゃないと感じる。

 この人はきっと——思っているよりもずっと静かな人間なんだろうと思う。
 冷静で理知的で、そしてたぶん、周りの人間が思うよりほんの少しだけ、繊細なのだ。
 触れようとすれば簡単に触れられる距離にいるのに、なぜか一歩だけ踏み込ませないような、そんな均衡を常に保っている。

 それが意図的なものなのか、それとも無意識なのかは、まだわからない。
 まるで、術式がそのまま人格を持ったようであるとさえ思う。

 ただ、最強と呼ばれているこの男が、それを崩さずにいる理由だけは、なんとなく理解できる気がした。
 それはきっと強さであると同時に、手放せない形でもあるのだろう。
 どちらか一方だけを選べるほど、この世界は単純な仕組みにはなっていないし、都合よくも作られてはいない。

 ——だからこそその内側にあるものに、触れてみたいと思ってしまう。
 たぶんそれは、少しだけ厄介なことなのだろうけど。

 そんなことを考えていたせいか、気づけば視線が外せなくなっていた。
 どれくらいそうしていたのかはわからない。ふいに、気配がわずかに動く。

「なに?」

 低く落ちてきた声に、はっとして瞬きをした。視線を逸らそうとした、その一瞬。

「僕に見とれちゃった?」

 軽く笑う気配と一緒に、距離が詰まる。
 次の瞬間には、腕が回されていた。
 引き寄せられる力は強くない。けれど、抗う余地もないまま、身体が自然と彼の方へ抱き寄せられる。

「……見てない」
「嘘つき」

 くす、と喉の奥で笑う音が、すぐ近くで落ちた。
 背中に回された手が、ゆっくりと位置を確かめるように動く。逃がさないわけでも、強く拘束するわけでもない。
 けれど、確かにそこに留めるための力が、静かにかかっている。

 肩口に、ふと重みが落ちた。ほんの少しだけ体温が近づく。
 さっきまで部屋を満たしていた静けさが、形を変えてこちらへ流れ込んでくるみたいだった。

「さっきから、ずっと見てたじゃん」

 囁くような声音は軽いのに、腕は離れない。むしろ、わずかに強くなる。
 その曖昧さに、呼吸が乱れそうになるのを、どうにか押し留めた。

「……違う」
「なにが?」

 すぐに返ってくる。間を置かせないくせに、追い詰めるわけでもないその距離感が、どうしようもなくこの人らしい。

「……少し、考えてただけ」
「ふーん」

 興味があるのかないのか、わからない声。
 けれど次の瞬間、背中に回された指先が、ほんの少しだけ強くなった。

「僕のこと?」

 さらりとした声音だった。軽くて、冗談みたいな響きを持っているのに、なぜか誤魔化せない気がしてしまう。
 言葉に詰まった沈黙を、そのまま受け取るように、五条は何も言わなかった。
 ただ、腕だけが離れない。むしろ、逃げ場を塞ぐみたいに、少しだけ深く引き寄せられる。

 ——ああ、と思う。

 この人はきっと、こういうふうにしか触れないのだろう。
 軽く曖昧に、冗談めかして、それでも決して離さない。静かなまま、確かに捕まえてくる。それが優しさなのか、それとも別のなにかなのかはまだわからないけれど。
 少なくとも私にとっては——嫌なものではなかった。
 むしろもっと、その内側に隠しているものを見せてほしいとさえ思う。
 恐らくそう言ったところで、素直には見せてはくれないのだろうが。

「……なに、それ」

 あからさまに目線を逸らした私を見て、不意にすぐ耳元で声が落ちた。
 さっきより少しだけ低い声音だった。
 なんとなく変わった雰囲気に、思わず肩が揺れてしまう。

「考えてること、わかりやすすぎ」

 くす、とまた笑う。けれど今度は、さっきまでよりほんの少しだけ距離が近い。呼吸が、触れそうな位置にある。

「……そんなわけないでしょ」
「いーや、あるある」

 軽い調子のまま、顔を覗き込まれる。逃げようとして、逃げきれなくなる。
 腕はそのままで、視線だけが絡め取られる。近いと思った瞬間、ふっと目を細められる。

「ねえ」

 呼びかける声は、いつもと変わらないはずなのに。なぜか、ほんの少しだけ深く落ちるように響いた。

「そんな顔で見られてるとさ」

 言葉が、途中で途切れる。その一瞬の間に、息が詰まる。
 指先が背中でわずかに力を込めた。逃がさないように、確かめるみたいに、そのままゆっくりと距離が縮まる。
 触れるか触れないかのところで、一度だけ止まる。
 ——また、冗談で終わるのかと思った。そういう男だと知っていたからだ。

 けれど次の瞬間、ほんのわずかに角度が変わる。そして、静かに唇が重なった。
 強くはないが、確かめるみたいな触れ方だった。それなのに、離れる気配がない。
 触れたまま、ほんの少しだけ息が混ざる。逃げ場がどこにもなくなってしまうように、少しずつ触れ合いは深くなっていく。

 じわじわと囲い込まれていくような侵食のされ方に、頭の奥がくらりとした。息がうまくできなくなる。
 甘いのに苦しくなって、私は思わず五条の服の胸の部分を掴んでいた。

 それがきっかけになったように、体を後ろに押し倒される。

「……誘ってんのかと思っちゃうよ?」

 息がかかる距離で、妖艶に笑う。
 冗談みたいな言い方なのに、体重はもう逃がす気がない位置にある。
 完全に覆いかぶさるほどではない。けれど、起き上がろうとすれば、すぐに止められるとわかる程度には近かった。

「……誘って、なんか」

 かすれた声が出る。さっきまでの余裕は、私にはどこにもなくなっていた。

「へぇ」

 興味があるのかないのか、曖昧な返事だった。
 けれど次の瞬間、顎に指がかかる。軽く持ち上げられて、強制的に視線を合わせられる。

「じゃあなに、なんも理由ないのにあんなに熱っぽく見てたんだ?」

 逃がさないまま、問いだけを落とす。
 答えを急かしているわけじゃない。ただ逸らすことを許さないような、その静かな圧に息が詰まる。

「……っ」

 言葉にならないまま、視線だけが揺れる。それを見た五条が、こちらを見通すようにわずかに目を細めた。

「やっぱり、わかりやすいじゃん」

 さっきと同じ言葉なのに、今度は少しだけ低い。
 
 そのまま、もう一度距離が詰まる。さっきよりも迷いなく、唇が重なる。今度は、確かめるだけじゃ終わらなかった。
 浅く触れたあと、すぐに離れずに、そのまま角度を変えてくる。呼吸が乱れるのを見透かしたみたいに、少しだけ間を与えてから、また触れる。
 逃げる余裕だけを残しておいて、逃がさない。そんな触れ方だった。

 背中に回された手が、ゆっくりと位置を変える。撫でるわけでもないのに、指先の動きが妙に意識を奪う。
 気づけば、さっきよりも深く、体が沈んでいた。

「……ほら」

 唇が離れたすぐあとで、低く囁かれる。

「またそんな顔する」

 軽くて、楽しんでいるような声。けれど、指は離れない。
 むしろ、私の熱を確かめるみたいに、わずかに力を込める。

「それで違うは、無理あるでしょ」

 口角を上げる。余裕のある声音のまま、もう一度距離が縮まった。
 さっきよりも、今度はゆっくりと逃げる時間を与えるみたいに見せて、結局は全部奪っていく。

 ——抗えないと思った。

 この人はきっと、最初から全部わかっている。どこまで踏み込めばいいかも、どこで止めればいいかも。
 その上で、わざと曖昧にしている。逃げ道があるように見せかけて、最後にはちゃんと捕まえるために。

 そしてまた、静かに唇を重ねてくる。
 もうどんなふうになっても構わないと、私は目を閉じた。

 結局、私が目の前の男を好きであることに変わりはないのだから。