誰よりも美しかった人

 夕方の校舎は窓の外の西日が差し込み、光と影の穏やかなコントラストを作っていた。一日の業務を終えて、廊下は静けさを取り戻している。廊下の端にある救護室の前だけ、湿った消毒液の匂いが漂っていた。その中で包帯の端を指で押さえながら、彼女は無言で結び目を整えた。どこをどんなふうに当てれば綺麗にまとまるのかを、彼女は熟知していた。一言で言えば、手当てに慣れた手つきだった。特に慣れたくてそうなったわけではない。ただ単に、する回数が多かったから慣れてしまっただけだ。

「……また自分で巻いてるの?」

 背後から落ちた声に、彼女の指先が止まる。振り向けば、夏油傑が扉枠に肩を預けて立ちこちらを見ていた。制服の襟元がわずかに乱れている。任務帰りに彼はよくそんな姿を見せていたので、一仕事終わったあとなのだということが彼女にもわかった。普段涼しい顔をして淡々と任務をこなしているはずの彼の表情が、苦虫を噛みつぶしたようになっている。

「……大丈夫です。かすり傷なので」
「それ、君の口癖だね」

 夏油は近づいて、彼女の手首に視線を落とした。包帯の下から覗く赤が、まだ新しい。彼の目は穏やかなはずなのに、どこか冷えて見えた。

「誰にやられたの?」
「……誰っていうか。普通の子です。うちの近所に住んでる……」

 言いながら、彼女はなんとか笑おうとした。いつものように、場を丸くするための笑いを。笑っていれば大抵のことは誤魔化せるし、それ以上を詮索されることもない。けれど今日は、口角が上がりきらなかった。

「普通の子、ね」

 夏油は短く息を吐き、椅子を引いて彼女の前に腰を下ろした。距離が近い。近いのに、押しつけがましい圧は全くなかった。この人はいつもこうだ。能力も地頭の回転の速さも人望も持ち合わせているのに、必要以上に禁欲的なところが前面に出てくる。だが目が合うと、逃げ道を消される感覚だけがあった。

「見えたんでしょう? 呪霊が」
「……はい」
「で、助けた」
「はい」
「それで殴られた」

 彼女は答えなかった。否定できないからだ。沈黙の間に、外からまだ残っている生徒の声が遠く聞こえた。笑い声が、別の世界の音みたいに薄く漂う。

「……慣れてるので」

 彼女はようやく言った。言う必要のない言葉を。普段なら、絶対に本音に近しいことは言わないようにしているが、夏油の前ではなぜかその制御がきかなくなる。

「昔から、こういうのは……」

 夏油の眉が、ほんの少しだけ寄った。

「昔から?」

 彼女は視線を下げた。包帯の白さが眩しい。白は清潔で、綺麗で、だからこそ汚れがよく見える。

「小さい頃から、見えちゃうんです。いないはずのものが。みんなには見えないみたいで。言っても信じてもらえなくて、怖がられて……」

 声が掠れる。喉の奥で、言葉が絡まる。昔の匂いが戻ってきそうだった。子供の頃の来客のたびに入れられて隠された湿った押し入れの暗さ。あるときは「祓ってもらえ」と投げ出された神社の石段の冷たさも。それから、耳にこびりついてなかなか離れてくれない大人たちの「気味が悪い」という囁きさえも。

「最近は、もう言わないようにしてて。今日も、言わなければ良かったんですけど。あの子が……」

 助けた相手の顔が浮かんだ。泣いていた子どもだった。呪霊に絡まれて震えていたから、とっさに助けることを選択してしまった。助けた瞬間、ありがとうじゃなくて、石が投げつけられた。

「『お前のせいで変なのが寄ってくる』って。『不吉だ』って、言われちゃいました」

 言葉にすると、胸の奥がじくじくと生々しく痛んだ。怒りより、虚しさが先に立つのが一番つらかった。
 夏油は立ち上がり、棚から新しい消毒液とガーゼを取った。彼女の手首に手を伸ばす。その手は温かいのに動きは静かで、怒りを抑え込んでいるのがわかる。

「消毒するよ」
「自分でできます」
「できる、できないの話じゃない」

 夏油は淡々と、けれど譲らない口調で言った。彼女の反論を、最初から受け取らないみたいな声音だった。
 ガーゼが触れる。ヒリ、と小さな痛みが走った。彼女が顔を歪める前に、夏油の手が少しだけ力を緩めた。目の前を相手をよく見ていなければ発揮されないような優しさが、この人はいつも的確だった。

「君は、ずっと一人で耐えてきたんだね」

 その一言が、いちばん痛かった。耐えたと認められた瞬間、今まで張っていた糸が切れそうになる。果たして本当にそうだったのだろうかと思ってしまう。本当なら、もっと耐えるべきだったのではないかと。

「……耐えてないです。だって、私は、見えるのが当たり前で。みんなが見えないだけで。だから私が悪いって言われたら、そうかもって思って」
「思わないでよ」

 夏油の声が少しだけ強くなる。彼の指先が止まった。目が上がって、彼女の目をまっすぐ捉える。

「君は悪くない」

 夏油はそう言い切った。全く迷いのない言葉だった。その断定が、胸の奥に深く落ちてくる。

「非術師は、知らないんだ。知らないから、恐れる。恐れるから、傷をつけてくる。そうやって、自分を守ることに必死になっているだけなんだ。……でもだからと言って、それを君が全部背負う必要はない。誰がなんと言おうと、傷つけてくる側が悪いのだから」

 夏油は包帯を巻き直しながら言った。静かな声だ。だけど、言葉の端に刃がある。刃の向きは、彼女ではなく、その知らない世界のほうを向いていた。

「君は、呪術師だ。ここでは、君は守られる側だよ」
「……守られる側?」
「そう」

 夏油は最後の結び目を作り、指先で軽く押さえた。その仕草が、まるで誓いみたいに丁寧だった。

「高専に来た理由、君は“逃げ”だって言ってたけど」

 彼女は息を止めた。そんなこと、前に一度だけ言ったことがあった。吐き出した瞬間に後悔して、すぐ飲み込んだはずの言葉。夏油は覚えていたらしい。

「逃げじゃない。生きるための選択だ。正しいよ」

 夏油の視線が柔らかくなる。柔らかいのに、奥の暗さは消えない。彼女はそれが少し怖かった。誰かを守る人の目は、ときどき、守るために何でも捨てられそうな色をしている。

「ねえ、夏油先輩」
「なに?」
「先輩は……嫌になったりしないんですか。普通の人たちのこと」

 夏油は、答えるまで少し時間を置いた。窓の外の茜が、彼の頬の輪郭を薄く染める。

「嫌になるよ」

それは驚くほど正直な声だった。

「でも、君を嫌いになる理由にはならない。君は“普通の人”じゃないからじゃない。……君が、ちゃんと人を助けようとしてるから」

 彼女の喉が熱くなる。泣くな、と自分に言い聞かせる。泣いたら、また誰かに「面倒な子」って思われる気がして。夏油は、彼女の表情を見て、ほんの少し困ったように笑った。

「無理に強がらなくていい」

 そして、まるで当然みたいに言った。

「今度からは、私に言いなよ。そういうことがあったら」
「……先輩に迷惑が」
「迷惑なら、最初から言わない」

 夏油は立ち上がり、救護室の扉に手をかけた。外へ出る前に振り返って、静かに付け足す。

「君が一人で耐えるのは、もう終わり。――私が許さない」

 最後の言葉は、優しさというより、誓いのようだった。彼女の中で何かが、ゆっくりほどけていく。廊下に出ると、風が少し冷たかった。夕暮れは、日中の痛みを薄めるみたいに世界を柔らかくする。夏油は歩き出しながら、ふと立ち止まって言う。

「君がさ」
「はい」
「慣れてるって言うたびに、私の中の何かが削れるんだ」

 彼女は言葉を失った。夏油は目を細め、冗談みたいに肩をすくめる。

「だから、やめて。私のために」

 自分のため、じゃない。彼はいつも、そういう言い方をする。相手が受け取りやすい形に変える。押し付けにならない距離で、確実に守る。彼女は小さく頷いた。

「……わかりました」
「うん」

 夏油は満足げに笑って、また歩き出した。その背中を見ながら、彼女は思う。この人は、優しい。優しすぎるのだ。だからきっと、いつか――その優しさで自分のことを追い詰めて折れる瞬間が来てしまうのかもしれない。その瞬間が来ないように、彼の隣に立てる自分でいたい。そう思ったのは、初めてのことだった。
 茜の終わり際、二人の影が並んで伸びた。風に揺れるその形が、ゆっくりと地面の上を滑っていく。どちらの影も、少しずつ長く、同じ方向へと伸びていた。それを見ているだけで理由もなく、彼女はこのまま歩いていける気がした。