午後の憧れ

平日の昼間の神社というのは、驚くほど人の気配が少ない。

参道を歩いていると、遠くで鳥が鳴く声と、木々を抜ける風の音だけが境内にゆっくりと広がっていて、街の喧騒とはまるで別の場所に来たような静けさがある。

私はこの時間帯が好きだった。

鳥居をくぐり、石畳をゆっくり歩いていくと、足の裏から伝わるひんやりとした感触が少しだけ頭の中を静かにしてくれる。

ここへ来るようになったのは最近のことだが、それでもいつの間にか、この場所に来ると呼吸が深くなるような気がしていた。

もともと神社が特別好きだったわけではない。

ただ、仕事を休むようになってから、家にずっと閉じこもっていると余計に気分が沈むことが多くなった。
人の多い場所に行く元気もなかった私にとって、この境内の静けさはちょうどよかった。

手水舎で手を清めてから拝殿の前に立ち、賽銭箱に小銭を落として鈴を鳴らす。
頭を下げながら何か願い事をしようとしてみるものの、うまく言葉にはならない。

叶えてほしい具体的な願いがあるというより、ただ今のこの重たい感じが少しでも軽くなればいいと思っているだけだからだ。
自分を取り巻く重たさは、もう長い間自分から離れてくれないものだった。

しばらく目を閉じてから顔を上げ、ゆっくりと境内の奥へ歩いていく。
そこには小さなベンチがあり、木陰になっているその場所は、昼間でもほとんど人が来ない。

私はそこに腰を下ろし、揺れる木の葉の隙間から見える空をぼんやりと眺めながら、息を吐いた。

平日の昼間にこんな場所にいる自分の姿を、少し遠くから眺めているような気分になることがある。

本当なら今ごろ会社にいて、パソコンに向かって仕事をしている時間だったはずだ。
そう考えると、ここでこうして座っていることに、ほんの少しだけ後ろめたい気持ちも湧いてくる。

けれど同時に、ここに来ると肩の力が抜けるのも確かだった。

風が吹き、木々がさわさわと揺れる。
その音を聞きながら視線を落としたとき、境内の端に黒い影が動くのが見えた。
人ではない形をした、小さく歪んだ影。

呪霊だった。

子どものころから、時々そういうものが見えることがある。
最初は怖くて仕方がなかったが、大人になるにつれて、見ないふりをすることを覚えた。
見えたところで、私にはどうすることもできないからだ。

刺激しないように距離を取ろうと立ち上がりかけたとき、背後から穏やかな声がかかった。

「君、見えているの?」

振り返ると、そこに立っていたのは黒い服を着た青年だった。
長い髪を後ろで束ねていて、柔らかい表情をしているのに、どこか空気が違う。

彼は不思議な、ともすれば浮世離れした雰囲気を持っているように見えた。
それは全身を纏っている漆黒から来るのかもしれないし、見通すような切れ長の目から覗く視線から来るのかもしれない。
どちらにしても、言葉でうまく表現できる類のものではないような気がした。

彼は私ではなく、呪霊の方へ視線を向けたまま、ほんの一瞬だけ手を動かした。
次の瞬間、さっきまでそこにいた黒い影は跡形もなく消えていた。

何が起きたのか理解するまで少し時間がかかり、私は思わず瞬きをする。

青年はようやくこちらを見て、興味深そうに私を観察するような視線を向けた。

「驚かないんだね」

そう言われて、私は少し困ったように笑う。なんと返事をしたらいいのか、咄嗟には思い浮かばかった。
だからなんとなく面倒になって、思ったままを告げる。

「……見慣れているので」
「なるほど」

青年は納得したように頷き、それからもう一度私を見る。
穏やかな表情は崩れないままだった。

「見えるのに何もできないのは、疲れるだろう」

その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
これまで誰かにそう言われたことはなかったからだ。

普通は気のせいだと笑われるか、怖がられるかのどちらかで、こんなふうに当たり前のことのように理解されたことはほとんどない。

「……もう、慣れました」

そう答えながら、私は視線を少し落とす。

「私は……弱いので」

呪霊が見えても祓えるわけでもなく、仕事も結局続けられずに休んでいる自分のことを思い出すと、自然とそんな言葉が口から出てしまった。

しかし青年は、少し首を傾げてから穏やかに言った。

「弱いわけじゃないよ」

予想していなかった返答に、思わず顔を上げる。

「君はただ、人より多く感じてしまうだけだ」

境内を吹き抜ける風が、木の葉を揺らす。
青年はその音を聞くように一瞬だけ視線を空へ向け、それからまたこちらに戻した。

「普通の人はそこまで気づかないから疲れないが、君は全部拾ってしまうんだろう。それは弱さというより、感受性の問題だ」

まるで何かの仕組みを説明するような落ち着いた口調だった。
私はしばらく何も言えずにいたが、やがて小さく息を吐く。

「……そうなんでしょうか」
「少なくとも、私にはそう見える」

青年は静かに笑った。
その笑い方は、からかうようなものではなく、本当にそう思っている人の表情だった。

境内の静けさの中で、胸の奥にあった重たいものが、ほんの少しだけ軽くなる気がした。
青年はふと空を見上げ、ゆっくりと立ち上がる。

「ここは落ち着く場所なんだね」
「はい」

私は頷いた。

「なんとなく……ここに来ると楽なので」
「いい場所を見つけたね」

そう言って参道の方へ歩き出した彼の背中を見送りながら、私は少しだけ迷ってから声をかける。

「ありがとう、ございました」

呪霊のことなのか、それともさっきの言葉のことなのか、自分でもはっきりしなかった。青年は振り返り、静かに言う。

「無理はしない方がいい」

柔らかな声だった。神社の雰囲気と馴染むようにあたりに落ちる。

「君はもう、十分やっている」

その言葉を残して、彼はゆっくりと境内を出ていった。

しばらくその場に立っていた私は、もう一度ベンチに座り直す。
風が吹き、木々が揺れ、さっきと同じ静かな午後が境内に戻ってくる。

けれど胸の奥には、ほんの少しだけ温かいものが残っていた。

そして私は気づく。
この神社に来る理由が、もう一つ増えていることに。

また彼に会えるかもしれないと思うことが、私の胸の中に仄かな温かさとして灯された。
穏やかな午後の邂逅だった。