1.些細なきっかけ

 彼女――久良伎リョウは「窓」だった。
 前線に立つことはないが、帳の調整、呪力残穢の解析、負傷者の初期対応――戦闘の外側を支える、裏方の人間だ。

 そして、五条悟の任務に随伴することが多かった。理由は単純で、五条の現場は被害規模が大きくなりやすく、術後処理と後方支援の手が必要になることが多かったからだ。
 それだけの話のはずなのに、いつの間にか彼女は「五条の現場にいるのが当たり前の人間」になっていた。

 その日の任務は、珍しく後味が悪かった。
 対象の呪霊は祓った。被害も最小限に抑えた。それでも、一般人の巻き添えが出た現場だった。事後処理が終わったあと、彼女はずっと無言で、資料をまとめる手だけを動かしていた。顔色も悪い。指先も、わずかに震えている。

「……今日は、もう上がりな」

 そう言った五条に、彼女は少しだけ驚いた顔をしてから、首を横に振った。

「まだ、やることがあります」
「だろうね。でも、それは今じゃなくていいよ」

 少し間を置いて、眉を寄せながら五条は続けた。

「……ああいう現場のあと、ひとりで考え込むのはよくない」

 彼女は一瞬息を飲んだ。言葉に詰まったようだった。

 実を言えば、彼女は「映像記録」が苦手だった。過去に、任務の検証映像で体調を崩したことがある。
 気丈にも彼女は、その任務を愚痴ひとつこぼさず最後までこなしたが、ダメージがよほど大きかったのだろう。それ以来、惨状を映像として見ることを、無意識に避けるようになっていた。

 今日は、街の崩れた建物も、血の跡も、全部、生で見てきた。映像で見るよりも、心労は大きかったであろうことは、想像に難くない。

 ――そりゃ、しんどいだろうな。

 少し血の気が引いて、青白くなった彼女の横顔を見て、五条はそう思いを馳せる。

「……映画、観ない?」

 五条がそう言ったのは、軽口にしては、少しだけ慎重な調子を含んでいた。

「馬鹿みたいなやつ。何も考えなくていいやつ。脳みそ空っぽにするには、そういうのが一番いい」

 彼女は少し迷ってから、小さく頷いた。心無しか表情が軽くなっている。

「……お願いします」

 それで話は決まってしまった。
 なぜ自分の部屋なのか、とか。なぜ「今度」ではなく、具体的に「次の休み」なのか、とか。そういう細かいことを考えたのは、約束を取り付けたあとだった。

 ――まあ、いいか。

 そのときの五条は、単純にそう思っていた。
 当日。部屋を片付けながら、五条は自分の行動に小さく眉を寄せた。

 ――……何やってんだろ。

 別に、人を呼ぶこと自体は珍しくない。なのに今日は、ソファの位置まで調整している。自分で自分の取っている行動が不可解だった。不可解なのに、心は浮き足立っているような気さえする。

 やがて彼女は、時間ぴったりに来た。少し緊張した様子で、でも、いつも通り丁寧にお辞儀をして部屋に足を踏み入れてくる。

 五条は軽く話をしながら映画を選び、飲み物を用意した。そして、ソファに並んで座る。距離は、腕一本分ほどきちんと取った。最初は、そうだった。しかし、映画が始まってしばらくしてから、五条は気づいた。

 ――近いな。

 ほんの少しずつ、彼女の体が五条の側に寄ってきている。気づけば、肩が時折、触れる距離になっていた。映画を観ながら緊張が緩んできているのか、彼女が元々そう言った距離感に無頓着な人間なのか、熱を直接感じられるまでの近さになっている。

 普段の五条なら、確実にからかっているような状態だった。「近くない?」とか、「僕のこと好きなの?」などと言って、丸め込むか、気がある相手に対してならそのまま口説き落とすかしている。
 だが、今日はなぜか言えなかった。口が縫い付けられたように、軽い言葉が出て来ない。

 彼女が体勢を変えた拍子に、ほんの少しだけ、体重が五条の肩にかかる。ふわりと彼女のやわらかい香りがして、一瞬、思考が止まる。

 ――……あ。

 視線を落とせば、近すぎる距離だった。彼女のさらりとして艶のある髪、長い睫毛、そして女性らしい丸みを帯びた頬のラインが目に入る。触れようと思えば、普通に触れるまでの近さだ。

 ――……これは、少し無防備すぎるな。

 そうやって距離を測ろうとした瞬間、かえって意識してしまった。五条はゆっくり息を吐いて、わざと体勢を変えた。

「寝るならちゃんと寄りかかりな」

 毛布を引き寄せて、彼女の肩にかける。指先が触れそうになるのを、ぎりぎりで避けた。
 彼女は「ありがとうございます」と小さく笑って、また画面に視線を戻す。その時に艶のある唇が、やたらと目についた。

 ――何も知らない顔で。

 その横顔を見ながら、五条は内心で小さく舌打ちした。彼女を見ている限り、それ以上の他意はなさそうな行動にしか見えなかった。

 ――無自覚って、本当に質が悪い。

 映画が終わる頃には、外はすっかり夜になっていた。タクシーを呼び、建物の前で並んで待つ。少し肌寒い風が吹いている。

「今日は……ありがとうございました。楽しかったです」

 そう言って笑う彼女の顔が、やけに柔らかく見えた。その瞬間、胸の奥が、少しだけ騒がしくなる。

 ――……ああ、これは、面倒なやつだ。

 五条は一歩、距離を詰める。彼女が、きょとんと見上げる、その距離まで。

「……あんまり、そういう顔で見ない方がいい」

 声は、思ったより低くなっていた。彼女は、理由がわからないまま、小さく首を傾げる。

 ――この距離は、線を引くには近すぎる。

 そう思って、五条は一瞬、視線を逸らしてから、一歩下がる。ちょうどそのとき、タクシーが止まった。

「ほら、来たよ」

 いつもの調子に戻した声で言う。彼女は何も気づかないまま、素直に頷いて乗り込む。

 ドアが閉まるのを見届けて、五条は夜の空気をひとつ、深く吸い込んだ。タクシーが見えなくなるのを確認してから、ポケットに手を突っ込む。
 夜風が、首元をかすめる。それだけのことなのに、なぜか、すぐには部屋に戻る気になれない。肩に残った彼女の温度だけが、やけに鮮明に残っていた。