2.ざわめきを抱いて

 現場は、もう静かだった。呪霊は祓われ、帳は解除され、一般人の避難誘導も終わっている。
 救急のサイレンも遠ざかり、あとは監督部への報告と、現場の片づけだけが残っていた。

 五条悟は道路脇の街灯の下に立ち、コンクリートの壁に背を預けていた。手持ち無沙汰というより、動く必要がない。――彼の仕事は、すでに終わっている。
 それでも、帰らなかったのは、彼女のことが気がかりだったからだ。

 少し離れた場所で、窓の久良伎リョウが黙々と端末を叩いている。黒い画面に映るのは、座標と時刻と、呪力の波形だった。彼女はそれを一つずつ照合し、記録し、分類していく。
 呪力残穢の回収ログと、空間の歪みの測定結果、そして帳の解除タイミング。どれも地味で、面倒だ。しかし、誰かがやらなければならない仕事だった。
 そして、そう言った意味でも五条の現場は特に厄介だ。

 ――ある意味当然だ。

 六眼の精度で見えるものは、計測した数だけ書類になる。無下限の干渉は、残穢の癖が強かった。
 だから、後から読む人間のために整形しなければ、ただのノイズの山になる。

 彼女は、そのノイズの山に手を突っ込み、淡々と形にしていた。五条は、アイマスクの上から視線を滑らせる。
 彼女の背中は小さく、座っている姿がやけに堅かった。
 簡易的に設置された椅子の高さも机の高さも合っていないのに、姿勢だけはぴんと伸びていて崩されない。まるで、そうすることを自ら義務付けているようにさえ見える。

 ――真面目すぎ。

 そう思うのに、軽口は出てこなかった。彼女が崩されるのを望んでいないように見えたからだ。
 風が吹き、紙の束がわずかに鳴った。彼女は片手で押さえて、また端末に目を落とす。指先の動きが、ほんの少しだけ遅くなっている。五条は目を細める。

 ――疲れてる。

 けれど、疲れていると口にするほどではない。ふらつきもしないし、返事もきちんとしている。笑おうと思えば、笑えるだろう。
 ただ、ほんの一拍。ほんの一拍だけ、動きが鈍くなっている。それが、五条には妙に目についた。

「まだ終わんないの?」

 声をかけると、リョウは顔を上げた。
驚いた顔をしてから、すぐにいつものように表情を整える。

「もう少しです。ログの整形が終われば……」
「整形って、誰向け?」
「監督部と、現場記録の保管用です。あと、次に入る人のために」

 五条は小さく息を吐いた。

 ――僕の後始末を、次の人のために?

 それは、ひどく真っ当な言い分だった。しかし呪術の世界では、真っ当さはときどき残酷に見える。真っ当さを持ち合わせた人間から崩されていくからだ。そう言った事象も、過去に何度も見てきた。

「……そっか」

 しかしそれ以上、言葉が続かない。彼女は「はい」とだけ言って、また画面に戻った。そのまま数分、キーボードの音だけが夜に響いた。

 五条は壁から背を離し、少し近づく。近づいても、彼女は振り向かなかった。集中しているときの彼女は、そういうところがある。
 机の上を覗き込み、波形の一覧を見る。確かに量が多い。これは整理しなければ、ただの強すぎる残穢の塊にしかならないだろう。

 ――面倒な現場。
 ――面倒な男。

 画面を見ながらどちらの意味か、五条自身も曖昧なまま、喉の奥で笑いそうになった。

「僕がやるよ」

 五条がそう言うと、リョウの指が止まった。彼女はゆっくり顔を上げ、首を横に振る。

「五条さんは、もう帰って休んでください。これは窓の仕事です」
「窓の仕事って言えば、何でも窓に押しつけていいの?」

 穏やかな問いかけ方をしたはずなのに、無意識に声の底にわずかな棘が混じってしまった。
 その苛立ちは、彼女の真面目さに向けられたものなのか、そうさせている自分に向けられたものなのか、五条にも判断がつかなかった。
 リョウは目を数回瞬かせてから、困ったように笑う。

「押しつけられてるとは思ってません。私がやるべきことなので」

 その返答が、五条の中で何かを引っかけた。眉根を寄せる。

 ――それが、問題なんだよ。

 彼女は善意でやっている。責任感でやっている。仕事として、自ら背負うのを当たり前のこととして受け取っている。
 しかしその当たり前の中に、彼女の消耗が紛れ込む。それを誰も咎めないし、誰も止めない。止める権利のある人間は、むしろ「助かる」と思うだろう。五条は、そこが嫌だった。

「……飯、食った?」

 唐突に話題を変えると、リョウは少し目を泳がせた。そっと、お腹に白い手を当てる。

「……今日は、まだ」
「だよね」

 五条は端末から視線を外し、夜道の先を見る。そこには、街灯が点々と続いている風景が伸びていて、他のものはほぼ闇の中に沈んでいる。人の気配はほとんどない。

「終わったら、なんか食って帰ろう。その後で送る」

 リョウは「え」と声を漏らし、慌てて手を振った。

「いえ、五条さんにそんなことをさせるわけには……」
「疲れた顔してる」

 五条の言葉は、淡々としていた。棘もなく、ただ事実を述べただけのような言い方だった。
 リョウは一瞬、言葉を失った。ようやく自分がどんな様子でいるのかを自覚したのだろう。頬をすり、と撫でて、それから小さく頷いた。

「……すみません」
「謝んなくていい」

 五条は短く言い、机の端に腰を預けた。わかるようになったのならそれでいい。だから五条は、彼女の仕事に手を出すわけでもなく、奪うわけでもなく、ただそこにいることを選択した。

 リョウは作業を再開する。自分の状態を自覚したことでさっきより少しだけ、肩の力が抜けたようだった。五条はそれを見て、目を細めた。

 ――こういうの、ずるいよな。

 彼女は自分で頑張っているつもりで、ほんの少し誰かがいるだけで楽になってしまったのだろう。
 そうなるのを促したのは五条だが、その事実が、彼の中の何かを静かに煽った。映画の夜、ソファで寄りかかられたときと同じだ、と思った。

 ――無自覚って、本当に質が悪い。

 更にキーボードを叩く乾いた音が続く。時折、夜風が紙の角を揺らしていった。
 数分後、彼女の肩がわずかに落ちた。手が止まり、彼女は指先を数回小さく握り直す動作をする。
 五条は声をかけなかった。その代わり、机の上の未開封のミネラルウォーターを彼女の近くへ滑らせる。
 リョウは一拍遅れて気づき、目を上げた。五条と視線が合いそうになって、慌てて逸らす。

「……ありがとうございます」

 そう言った声は小さかった。五条はアイマスクの奥で笑う。からかいたい気持ちは、確かにある。でも今日は、それをしない方がいいと、直感が言っていた。

 ――今、ふざけたら壊れる。

 何が、とは言わなかった。言葉にしてしまえば、それこそ簡単に崩壊してしまうような類のもののように思えたからだ。
 それはこの空気かもしれないし、彼女の集中かもしれないし、あるいは、自分の抑えているものかもしれなかった。

「終わった?」
「……はい。提出用に整えました」

 リョウが端末を閉じ、息をつく。その息は、思ったより長かった。五条は何も言わずに立ち上がる。そして自然に、彼女の手から端末を受け取った。
 リョウが一瞬、戸惑ったように五条を見上げる。五条は気にせず、端末を片手に歩き出した。

「行くよ」
「……はい」

 ふたりで夜道を歩く。リョウの歩幅は小さい。五条はそれに合わせて速度を落とした。
 彼女は横を歩いているのに、自分からは少しだけ距離を取っている。それはたぶん、長い間の習慣だろう。

 ——まあ、いい。

 直すべきなのは、距離の方ではない。
 五条の仕事は、呪霊を祓って終わる。だが彼女は、そのあとに残るものを拾い集めている。そういう役割を、当たり前みたいに引き受けている。それを、今まで自分は「後処理」くらいにしか思っていなかった。

 五条は小さく息を吐いた。夜風が首元をかすめる。その感触と一緒に、自分の認識が、少しだけずれていたことを認めた。