13-1.我慢し続けた男@

五条の部屋のリビングには、デスクライトの白い光だけが落ちている。
その下で、リョウは黙々と端末を操作していた。
ソファの端に座って、膝の上には書類。
画面と紙を何度も見比べながら、指先は休むことなく動いている。

「……ここ、ログの時間ずれてる……」

小さく呟いて、またキーボードを叩く。
その少し後ろ。
ソファの背もたれに寄りかかるようにして、五条はそれを眺めていた。

――……本当に、変わらない。

任務帰りの車内でも。
深夜の高専の廊下でも。
自分の部屋に来ている今でさえ。
どれだけ疲れていても、どれだけ眠そうでも、「仕事」を前にしたときの集中力だけは、絶対に切らさない。

その横顔を、どれくらいの時間、ただ見るだけでやり過ごしてきたか。
触れたくなったことは、何度もある。
抱き寄せたくなったことも、正直、数え切れない。
でも、そのたびに思い出してきた。

――ここで触ったら、全部変わる。

彼女のリズムも、距離感も、日常も。
全部、自分の都合で塗り替えてしまう気がして。

告白した後も。
キスした後も。
体を重ねた後でさえ。

「ちゃんと段階を踏む」なんて、聞こえのいい言葉を自分に言い聞かせて、ずっと抑えてきた。

――……よく、ここまで我慢したよ、本当に。

部屋に来てから、もう一時間以上。
リョウは一度も、ちゃんとこちらを見ていない。

「……ねえ」

軽く声をかけても、

「すみません、ここだけ……」

そう言って、また画面に戻る。
五条は小さく息を吐いた。

――恋人の家に来てる顔じゃないよね、それ。

……というか。

――他の誰の前でも、こんな顔、してたんだろうな。

集中した横顔。
無防備な距離感。
仕事に没頭して、周りが見えなくなる癖。
胸の奥に、じわっと嫌な熱が滲む。

――……僕のだろ。

そう思った自分に、少しだけ苦笑する。
ソファから立ち上がって、後ろから覗き込む。

「まだ終わらない?」
「……もう少しです。ここ、照合したら……」

説明しようとする声を聞き流して、そっと頬に触れる。

「……五条さん?」

顔を上げた、その瞬間。
唇に、軽く触れる。
ほんの一瞬。

……のはずだった。

もう一度。
今度は、少しだけ長く。
リョウの指先が、キーボードの上で止まる。
視線が揺れて、焦点が合わなくなる。
もう一度。
今度は、ゆっくり。
触れて、離れて、また触れて。
そのたびに、リョウの肩から少しずつ力が抜けていくのが、はっきりわかる。

「……五条さん……」

呼ぶ声が、さっきよりもずっと小さい。
背中に回した腕で、軽く引き寄せる。
リョウの身体は、驚くほど素直にこちらに傾いた。

「ねえ」

低い声で囁く。

「君さ」

額を寄せる。

「……僕の前で、そんな顔してる自覚、ある?」

もう一度、唇を塞ぐ。
今度は、さっきよりも長く。
離れるのが惜しいみたいに。
リョウの唇が、ほんの少しだけ頼りなく動く。
背中に回した腕の中で、身体が強張って、それから、ゆっくり緩んでいく。

――……ああ。

ちゃんと、落ちてきてる。
五条の指先が、頬にかかって、逃げ道を塞ぐ。

「ずっと我慢してたんだよ」

低く言うと、リョウの睫毛が、わずかに揺れた。

「仕事の邪魔したくなかったし。君のペース、壊したくなかったし」

息を吐いて、一拍置く。

「……でもさ」

視線を、逃がさない。

「僕の部屋で、僕の前で、そんな顔されて」

もう一度、ゆっくりと口づける。
今度は、さっきまでよりも、ずっと深く、ずっと丁寧に。

「……何も思わないほど、優しくない」

そのとき。
リョウの指先が、五条の服を、きゅっと掴んだ。
ほんの一瞬。
ためらうみたいに。
それでも、はっきりと。

――……あ。

それだけで、全部持っていかれる。
五条は、その手を逃がさないように、背中を強く抱き寄せる。

「……そういうこと、するんだ」

低く笑う。

「自覚ないまま、煽るの、ほんと悪い癖」

もう一度、今度は逃がさないキス。
リョウの身体は、もう、最初みたいに突っぱねてこない。
腕の中で、少しずつ、少しずつ、力を抜いていく。

――……最初から、こうしたかった。

他の誰にも見せない顔。
他の誰にも触らせない距離。
額を寄せる。

「今日はさ」

低い声。

「……ちゃんと、僕の方、見て」

もう一度、深く口づける。
さっきよりも、ずっと執拗で、ずっと独占的で、ずっと逃がす気がないキス。
リョウの指先は、もう離れない。

――……ほんとに、限界まで我慢してたな、僕。

五条は、リョウの額に自分の額を軽くぶつけて、低く息を吐いた。

「……もう、戻す気ないから」

そのまま、もう一度、深く唇を重ねる。

――この先に進むのが、時間の問題だということは、もう、考えるまでもなかった。