五条の部屋のリビングには、デスクライトの白い光だけが落ちている。
その下で、リョウは黙々と端末を操作していた。
ソファの端に座って、膝の上には書類。
画面と紙を何度も見比べながら、指先は休むことなく動いている。
「……ここ、ログの時間ずれてる……」
小さく呟いて、またキーボードを叩く。
その少し後ろ。
ソファの背もたれに寄りかかるようにして、五条はそれを眺めていた。
――……本当に、変わらない。
任務帰りの車内でも。
深夜の高専の廊下でも。
自分の部屋に来ている今でさえ。
どれだけ疲れていても、どれだけ眠そうでも、「仕事」を前にしたときの集中力だけは、絶対に切らさない。
その横顔を、どれくらいの時間、ただ見るだけでやり過ごしてきたか。
触れたくなったことは、何度もある。
抱き寄せたくなったことも、正直、数え切れない。
でも、そのたびに思い出してきた。
――ここで触ったら、全部変わる。
彼女のリズムも、距離感も、日常も。
全部、自分の都合で塗り替えてしまう気がして。
告白した後も。
キスした後も。
体を重ねた後でさえ。
「ちゃんと段階を踏む」なんて、聞こえのいい言葉を自分に言い聞かせて、ずっと抑えてきた。
――……よく、ここまで我慢したよ、本当に。
部屋に来てから、もう一時間以上。
リョウは一度も、ちゃんとこちらを見ていない。
「……ねえ」
軽く声をかけても、
「すみません、ここだけ……」
そう言って、また画面に戻る。
五条は小さく息を吐いた。
――恋人の家に来てる顔じゃないよね、それ。
……というか。
――他の誰の前でも、こんな顔、してたんだろうな。
集中した横顔。
無防備な距離感。
仕事に没頭して、周りが見えなくなる癖。
胸の奥に、じわっと嫌な熱が滲む。
――……僕のだろ。
そう思った自分に、少しだけ苦笑する。
ソファから立ち上がって、後ろから覗き込む。
「まだ終わらない?」
「……もう少しです。ここ、照合したら……」
説明しようとする声を聞き流して、そっと頬に触れる。
「……五条さん?」
顔を上げた、その瞬間。
唇に、軽く触れる。
ほんの一瞬。
……のはずだった。
もう一度。
今度は、少しだけ長く。
リョウの指先が、キーボードの上で止まる。
視線が揺れて、焦点が合わなくなる。
もう一度。
今度は、ゆっくり。
触れて、離れて、また触れて。
そのたびに、リョウの肩から少しずつ力が抜けていくのが、はっきりわかる。
「……五条さん……」
呼ぶ声が、さっきよりもずっと小さい。
背中に回した腕で、軽く引き寄せる。
リョウの身体は、驚くほど素直にこちらに傾いた。
「ねえ」
低い声で囁く。
「君さ」
額を寄せる。
「……僕の前で、そんな顔してる自覚、ある?」
もう一度、唇を塞ぐ。
今度は、さっきよりも長く。
離れるのが惜しいみたいに。
リョウの唇が、ほんの少しだけ頼りなく動く。
背中に回した腕の中で、身体が強張って、それから、ゆっくり緩んでいく。
――……ああ。
ちゃんと、落ちてきてる。
五条の指先が、頬にかかって、逃げ道を塞ぐ。
「ずっと我慢してたんだよ」
低く言うと、リョウの睫毛が、わずかに揺れた。
「仕事の邪魔したくなかったし。君のペース、壊したくなかったし」
息を吐いて、一拍置く。
「……でもさ」
視線を、逃がさない。
「僕の部屋で、僕の前で、そんな顔されて」
もう一度、ゆっくりと口づける。
今度は、さっきまでよりも、ずっと深く、ずっと丁寧に。
「……何も思わないほど、優しくない」
そのとき。
リョウの指先が、五条の服を、きゅっと掴んだ。
ほんの一瞬。
ためらうみたいに。
それでも、はっきりと。
――……あ。
それだけで、全部持っていかれる。
五条は、その手を逃がさないように、背中を強く抱き寄せる。
「……そういうこと、するんだ」
低く笑う。
「自覚ないまま、煽るの、ほんと悪い癖」
もう一度、今度は逃がさないキス。
リョウの身体は、もう、最初みたいに突っぱねてこない。
腕の中で、少しずつ、少しずつ、力を抜いていく。
――……最初から、こうしたかった。
他の誰にも見せない顔。
他の誰にも触らせない距離。
額を寄せる。
「今日はさ」
低い声。
「……ちゃんと、僕の方、見て」
もう一度、深く口づける。
さっきよりも、ずっと執拗で、ずっと独占的で、ずっと逃がす気がないキス。
リョウの指先は、もう離れない。
――……ほんとに、限界まで我慢してたな、僕。
五条は、リョウの額に自分の額を軽くぶつけて、低く息を吐いた。
「……もう、戻す気ないから」
そのまま、もう一度、深く唇を重ねる。
――この先に進むのが、時間の問題だということは、もう、考えるまでもなかった。