店を出てからも、リョウは何度か自分の手元に視線を落としていた。
指に嵌められたリングは、外の光を受けてやわらかく輝いている。それはガラス越しに見ていたときよりもずっと現実的で、逃げ場のない存在感を放っていた。
リョウは無意識に、その指先に触れる。確かめるようになぞるように、もう一度喜びを噛みしめるように。
外そうとはしないその仕草を横目で見ながら、五条はわずかに目を細めた。
似合っているかどうかを測っているのではなく、“そこにあること”を受け入れようとしているような手つきに見えたからだ。
二人はしばらく無言のまま歩く。
人の流れの中で、自然と距離が近くなった。そのまま、指が絡む。一本一本を確かめるように手は握られた。そのようにして繋がれた手をほどく理由が、どちらにも見当たらなかった。
さっきよりも、リョウの手にわずかに力がこもる。その変化を感じながら、五条はふと口を開く。
「……ねえ」
リョウが不思議そうに顔を上げる。
「僕に対する言葉、まだ敬語のまま?」
軽く言ったつもりだったが、その問いは真っ直ぐに届いたらしい。リョウの動きが、ほんのわずかに止まって視線が揺れる。
さっきのやり取りを、きちんと覚えている顔だった。五条は少しだけ苦笑して肩をすくめる。
「さっき、“甘える練習する”って言ったよね」
責めるでもなく、急かすでもなく。ただ、続きを促すように告げる。
「敬語ってさ、距離置くための言葉じゃん」
そう言いながら、ほんの少しだけ距離を詰める。意識せざるを得ない程度の近さまで。
「そのままだと、意味ないでしょ」
リョウはすぐには答えない。視線を落として、考えている。どうすればいいのかは、もうわかっているような表情だった。ただそれを実際にやることに、ほんの少し躊躇いがあるというだけの。
その沈黙を、五条は急かさずに待つ。やがて、リョウが小さく息を吸った。
「……すぐに、は……少し、難しいかも」
正直な言い方だった。五条はその言葉を聞いて、わずかに口元を緩める。
「へえ?」
少しだけ、意地の悪い声音になる。
「さっきあんなの選べたのに?」
リョウの視線が上がる。リングのことだと、すぐにわかる。彼女の指先が、無意識にそれに触れた。五条は続ける。
「そっちはできて、こっちは無理なんだ」
片眉を上げて軽く言う。けれど、そのまま突き放しはしなかった。
「……どっちも同じでしょ」
少しだけ声を落とす。
「欲しいもの、ちゃんと選ぶってことなんだから」
リョウの呼吸が、わずかに揺れる。意味は、ちゃんと届いているようだった。
五条は一歩だけ距離を詰める。視線が自然と合う距離だ。
「ほら、やってみてよ」
静かに促す。命令のつもりはなかったが、逃がすつもりもさらさらなかった。
リョウの喉が、小さく上下する。明らかに迷っている仕草だった。けれど、視線は逸らされない。そのまま、ほんの少しの時間が流れて——
「……さとる、は」
途切れがちな声で、名前が落ちる。一瞬、空気が止まった。五条はわずかに目を見開いて、それからゆっくりと目を細める。
「……うん」
短く返す。満足を隠さない声音だった。ずっとそんなふうに呼ばれるのを待っていたからだ。
「ちゃんとできるじゃん」
軽く言って、繋いでいた指に少しだけ力を込める。今度はリョウの方からも、はっきりと握り返してきた。その反応に、五条はわずかに笑う。
そのまま、もう一歩距離を詰める。呼吸が触れるほどの近さまで。リョウは逃げなかった。ぎりぎり触れるか触れないかのところで、動きを止める。
「僕はさ」
視線を絡めたまま、ゆっくりと続ける。
「もっと好きって言ってほしいし、触りたいって思ってるけど」
言葉を置く。押しつけず、ただ示すだけ。
「リョウは?」
問いかける。選ばせるために。リョウの呼吸が揺れる。頬がほんのりと赤くなって、視線がわずかに震える。けれど、逸らされなかった。
そのまま、五条は何も言わずに待つ。やがて、リョウが小さく息を吸った。
「……私も……もっと、触ってほしい」
その言葉が落ちた瞬間、空気が静かに変わる。五条はほんの一瞬だけ目を見開いて、それからゆっくりと細めた。
繋いでいた指に、自然と力がこもる。逃がさないためではない。ただ、その言葉を受け取ったことを確かめるために。
「……うん」
短く返す。それだけで十分だった。それ以上は言わない。言わなくても、もう伝わっている。
そのまま、並んで歩き出す。さっきまでと同じ道のはずなのに、距離だけがわずかに変わっていた。