何か小さい生き物がいるな。
五条悟が小日向陽毬に抱いた第一印象は、その程度のものだった。同学年の七海建人や灰原雄の後ろに隠れるようにして、ちょこちょこと必死についていく姿を、よく見かける。
ここは東京都立呪術高等専門学校。呪術師として最前線に立ち、命の危険を冒すことも珍しくない場所だ。
そんなところに、ひどく弱そうな、どうにも場違いなやつが来たものだ。五条はそう思いながら、視界の端で彼女を一瞥する。五条が陽毬を見下すまで、そう時間はかからなかった。
しかし、その予測に反して、陽毬に対する同学年の評価は、すこぶる良かった。
七海いわく、「彼女は非常な努力家」らしい。普段辛口の七海らしからぬ言葉に、五条はその時飲んでいた甘いコーヒーを吹き出しそうになった。灰原に至っては、「呪力操作に関してなら、僕たちの中で彼女が一番ですよ!」とまで言う。
事実、陽毬の術式は「呪力安定化」といった。相手の呪力を一定のラインまで鎮めたり、逆に増幅させたりできるらしい。
どんなものかと、五条は興味半分で陽毬を目で追うようになる。実際に見てみると、その実力はなかなか確かなものだった。特に術式は、使いこなせれば敵味方・遠近を問わず対応できそうな、かなり便利な代物だ。
だが、フィジカルが弱い。それに、とっさの時の対応がなぜか苦手らしく、いつもそこでつまずいている。
呪霊や呪詛師など、突発性と嫌がらせのオンパレードみたいな存在だ。呪術師の弱点を突いて戦闘意欲を削ぎ、命を狙ってくる。
いくら才能があり、努力家だと言ったところで。
――ありゃ、一瞬でやられるんじゃないか?
五条は思わず嘆息する。同学年二人の評価を聞いても、陽毬に対する印象が大きく覆ることはなかった。
そんなふうに半ば一方的に陽毬を見てきた五条だったが、入学してしばらく経っても、彼女とまともに会話したことはなかった。
理由は単純だ。五条の前では、陽毬が常に委縮した態度を見せるからである。
陽毬はたいてい七海や灰原と行動を共にしていて、五条が接点を持とうとすると、自然と二人が間に入る形になる。
本人はと言えば、五条を目の前にするだけで、顔を真っ赤にしたり、真っ青にしたり。汗を飛ばしながら、わたわたと落ち着きなくしている。
あまりに大仰な反応に見えたため、あとで七海たちに聞いてみると、「男が苦手らしく、男性恐怖症のような症状がある」とのことだった。ある程度仲良くなったところで、色んな場面で支障が出るといけないから。そう本人が二人に告げていたらしい。
「お前らとは普通に話してるようだけど?」
五条が不機嫌さを隠さずにつっこむと、
「私たちとは、時間をかけて関係を築いてきましたから」
七海からは素っ気ない返答が返ってくる。
要するに、五条は常に威圧感たっぷりで接してくるため、信頼関係を築く以前の問題、ということらしい。
「あなたも先輩という立場なら、後輩にはもう少し丁寧に接してはどうですか」
細い目の奥を冷たく光らせ、七海は嫌味を添えた。
「知るかよ。なんで俺の方が、あいつに気を使わなきゃなんねぇんだ」
尊大な言葉を言い捨てる五条に、七海は盛大なため息をつく。灰原からは、同情するようなジト目を向けられる始末だった。
それでもその少し後から、五条は意識しない程度に、陽毬への態度を変えていた。
気を遣う、というほど殊勝なものではない。ただ、以前みたいに無遠慮に距離を詰めるのを、なんとなく控えるようになっただけだった。
恐怖症だとか、そういう類いのものについては、正直よくわからない。自分には最初から縁のない感覚だと思っている。
けれど、生まれ持った何かのせいで、他人と同じ場所に立てない感覚なら、覚えがあった。隣にいるはずなのに、気づけば一歩ぶん遠い。悪気もないのに、勝手に線を引かれてしまう。ああいう侘びしい距離の出来方だけは、嫌というほど知っている。
だから少しは理解できる気がしていたのに、いざ陽毬のことになると、どうにも理屈が噛み合わない。放っておけばいい相手のはずなのに、なぜか目で追ってしまうし、気づけば考えている。理解できないくせに、気にかかる。
結局五条は、その答えの出ない違和感ごと、陽毬の存在を頭の隅に置いたまま、過ごすようになっていた。
ある日のこと。
授業の合間、休憩室でコーヒーを飲みながら糖分補給用のカロリーバーをかじっていると、陽毬が入ってきた。
五条の姿を見つけた瞬間、陽毬はびくっと細い肩を震わせる。それでも律儀にぺこりと頭を下げると、そそくさとコーヒーメーカーの方へ向かった。
その様子に、五条は一瞬いら立ちを覚えた。だが、七海からの苦言を思い出し、どうにか飲み込む。
コーヒーが落ちるのを待つ陽毬の隣に立ち、五条は「ん」と短く声を出し、もう一本持っていたカロリーバーをずいと差し出した。
「え……?」
状況を理解しきれず、あたふたする陽毬の手に、五条は半ば強引にそれを握らせる。
「それ、うまいんだ。いいからやるよ」
頭をかきながら、ぶっきらぼうに言う。視線は合わさず、明後日の方向を向いたまま。それでも五条にとっては、これが精一杯の歩み寄りだった。
だが、陽毬は――そんな五条に、ふんわりと笑顔を向けた。本当に、心の底からうれしそうに。
「ありがとうございます。五条先輩」
まるで大切な宝物でも受け取ったかのように、陽毬は小さな手でカロリーバーを胸に抱きしめる。
その一連の仕草から、五条は目を離せなくなった。七海や灰原が、やけに陽毬をかわいがる理由が、嫌というほどわかってしまったのだ。
その数日後。
陽毬は、七海と灰原、それに五条と一緒に、比較的軽度と判断された任務に出ていた。今回の任務は、1年生の実地訓練を兼ねている。五条は監督役として同行していた。
郊外の廃工場。人の気配が途絶えて久しいはずの場所に、呪力の澱みだけが溜まっている。
戦闘が始まってからしばらくは、実際とても順調だった。陽毬は後方から、二人の呪力の乱れを整え続けている。動きは明らかに軽く、連携も噛み合っていた。
――少なくとも、予定通りに進んでいるうちは。
奥の区画に入った、そのときだった。
「……誰かいる」
七海が低く言った。影の中から、ひとりの男が姿を現す。作業着のような服。やつれた顔。年の頃は二十代か、三十代か。呪霊ではない。
――呪詛師だ。
「……ちぇ。やっぱ来たかよ、高専のガキども」
男は吐き捨てるように言って、呪力を練り上げた。男の視線が、戦線の後ろにいる陽毬へ向く。明らかに一番弱そうな獲物を見定めた目だった。
「別に好きでやってんじゃねえんだ。仕事も、住むとこも、全部ダメになって……他にやりようがなかったんだよ」
言い訳みたいな言葉だった。怒っているようでもあり、投げやりなようでもあり。
陽毬は、その声を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
――人だ。
呪詛師。敵。倒すべき相手。頭ではわかっている。それでも、「男の声」「男の姿」という情報が、思考より先に体を縛りつけた。
「来るぞ!」
七海の声と同時に、男が踏み込んでくる。狙いは――陽毬だった。距離が、近い。近すぎる。視界が一気に狭まる。足が、床に縫い付けられたみたいに動かない。呼吸が、浅くなる。
――だめだ。
わかっているのに。今、動かなきゃいけないのに、体が言うことを聞かない。
「……おい」
少し離れた位置から、五条の声が飛んできた。
「何ボサッと突っ立ってんだ、陽毬!」
陽毬は、びくりと肩を震わせる。
「危ねえだろ! 下がるか、術式使うか、どっちかしろ!」
正論だった。戦場では、当たり前すぎる指示だった。だが、その「当たり前」が、今の陽毬にはできない。視界の端で、男の手が伸びてくるのが見える。
――やめて。
声にならない声が、喉の奥で詰まる。
「おい、聞いてんのか!」
五条の声が、少し強くなる。
その瞬間、陽毬の中で、何かがぷつりと切れた。息が、吸えない。視界が、ぐらりと揺れる。次の瞬間、陽毬はその場に崩れ落ちた。
「……っ!」
「小日向!」
七海と灰原が同時に声を上げる。男の動きが止まるより早く。
「あー、はいはい。そこまで」
五条の声が、ひどく間の抜けた調子で割り込んだ。次の瞬間、男の体は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられて動かなくなる。
戦闘は、あっけなく終わった。七海と灰原が、すでに陽毬のそばにしゃがみこんでいた。
「……呼吸が乱れてる。過呼吸気味ですね」
「小日向、大丈夫? 聞こえる?」
陽毬は、返事ができなかった。ただ、苦しそうに息をしながら、指先をぎゅっと握りしめている。
五条は、その様子を少し離れたところから見ていた。さっきまで、「動け」と怒鳴りつけていた相手が、今は立ち上がることすらできずに、床の上で震えている。
(……は?)
正直、意味がわからなかった。呪詛師にビビった?いや、それだけじゃない。
(……マジで、動けなくなってた、ってことか?)
五条は、無意識に舌打ちしそうになるのをこらえた。
今までにも、怖がる呪術師は見てきた。ビビって動きが鈍るやつも、珍しくはない。でも、これは――そういうのとは、明らかに違うような気がした。
理由はわからない。正直、どういう仕組みなのかも、まったくわからない。
ただ、さっき自分が言った言葉が、的外れだったことだけは、何となく理解した。五条は、そこで初めて、事態を「面倒」じゃなく「厄介」だと認識した。
「……」
何か言うべきかと思ったが、結局、何も言わなかった。
「今回は終了。回収して帰るぞ」
いつも通りの、そっけない調子でそう言って、踵を返す。けれど、その背中は、ほんの少しだけ、さっきより静かだった。