2.不揃いな関係を断ち切って

任務が終わった直後の空気は、いつも少しだけ緩い、と五条は思う。
張り詰めていた神経がほどける瞬間の、甘いだるさがまとわりついているようだ。戦闘の熱が、体の奥でまだ微かに残っている。息を吐くたびに、現実の重さがゆっくり戻ってくるような感覚だった。
五条は歩きながら、指先で首元を軽く掻いた。校舎へ戻る道は静かで、遠くで鳥が鳴いている。夕方の光が建物の隙間から差し込み、地面に長い影を落としていた。
前を行く七海と灰原は、いつも通りの距離感で話している。反省会というほど堅くもなく、雑談というほど軽くもない。任務帰り特有の、仕事の延長みたいな会話だ。七海は一定の歩幅を崩さず淡々と話し、灰原はその横で軽く相槌を返す。二人とも、さっきまでの戦闘の気配をほとんど引きずっていない。

(……ま、今日のは悪くなかった)

そう思いながらも、五条の視線は自然と後ろへ滑る。
陽毬がいる。
少し遅れて歩きながら、視線が落ち着かないでいる。周りを見ているようで、どこも見ていない。足取りは乱れていないのに、どこか硬い。

(……何だよ)

五条は、面倒の気配がした。今日の任務は、運が良かったわけじゃない。配置が良かった。それだけの話だ。
なのに、陽毬のあの顔はなんだ。納得が行かず、五条はかすかに眉を寄せる。
思い返すと、任務中から彼女は妙だった。



今回の任務地となった廃ビルは、外から見るより中が狭かった。階段の踊り場は暗く、通路は無駄に曲がっている。呪力の気配が薄くなったり濃くなったりして、湿った膜のようにまとわりつく。古い鉄と埃の匂いが、喉の奥にざらついた感触を残す。最初に足を止めたのは七海だった。

「……配置が不自然ですね」
「だよね。嫌がらせって感じ」

灰原が軽い声で同意する。だが、その目は笑っていない。真剣そのものだ。
その少し後ろで、陽毬が拳を握っているのが五条には見えた。いつも通りの彼女の仕草だった。陽毬は緊張すると、ああやって指先が固まる。

(このタイプの現場、あいつを前に出すと止まるな)

止まるだけならまだいい。止まった瞬間、全体が崩れる。――いや、正確には、崩れる芽が出る。戦闘というのはそういうものだ。

(めんどくせ)

だから五条は決めた。だがそれを、陽毬に説明する気はなかった。

「陽毬」

呼んだ声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。いつもの調子で呼べばいいのに、なぜか音量が出ない。陽毬がびくりと肩を震わせて、顔を上げる。

(……いや、そんな反応するなら、余計うるさくできねぇだろ)

自分の中で勝手に言い訳を作りながら、五条は続ける。

「お前、後ろな。後方支援」

短く、命令形で、余計な言葉は足さずに指示する。無意識に取った態度だった。陽毬が一瞬固まる。そして理解したのかしていないのか、曖昧な顔のまま、小さく頷いた。
七海は何も言わなかった。灰原も、少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷く。

「了解です」
「うん。頼りにしてるよ!」

頼りにしてる、という灰原の声に、陽毬がわずかに肩を揺らす。五条はそれを見て、眉をひそめた。

(……なんだその反応)

だが、今は構っている場合じゃない。

「来るぞ」

七海が低く言い、次の瞬間、曲がり角から呪霊が滑り出してきた。数は多くはない。ただし、動きがいやらしい。狙いが散っている。こちらの集中を削るような動きだった。

(だから嫌なんだよ、こういうの)

五条は雑に前へ出た。雑に、というのは動きが荒いという意味ではない。余計な迷いがない、という意味だ。――そして、意外なほど全員の動きが噛み合った。
陽毬が後ろで術式を回す。空気が整って、呪力の波がなだらかになる。さっきまで感じていた細かい揺れが、すっと消えた。視界のノイズが減り、判断が速くなる。七海の判断が迷わない。灰原の踏み込みが軽くなる。呪霊の嫌がらせみたいな揺さぶりが、効かなくなった。

(……楽、だな)

五条は内心でそう思った。だから思わず零れた。

「やっぱ後ろで回してる方が正解か」

独り言みたいな声だった。五条には、褒めたつもりはない。ただの事実確認のような本音だった。
呪霊の核を潰す。残りは七海と灰原が処理する。連携の速度が速く、何とも終わり方が綺麗だった。
そんなふうに戦闘は、拍子抜けするほど短く終わった。呪霊の残穢が消えるのを見届けながら、七海が息を吐く。

「……安定していましたね」
「だね。めっちゃやりやすかった!」

灰原が明るく言ったにもかかわらず、陽毬は笑わなかった。表情が、どこか引きつっている。

(……なんだよ)

予想外の陽毬の反応に、五条はまた面倒の気配を感じた。




帰路。四人はビル街の隙間を抜けて、校舎への道を戻っていた。
前の二人は会話を続けている。いつも通りの風景だった。終わった任務を必要以上に引きずらないのが、この二人のいいところでもある。
五条は歩調を落として、陽毬の隣に並んだ。普段なら、それだけで距離を取られる。反射みたいに半歩離れるのが、いつもの陽毬の癖だった。
けれど今日は、離れなかった。肩が触れそうな距離のまま、数歩、また五条は距離を詰める。そこでようやく我に返ったみたいに、陽毬は小さく身を引いた。その遅れに、五条だけが気づいていた。

「……さっきは、安定してたな」

事実を告げた。だが、陽毬は驚いたように目を動かし、曖昧に頷く。

「……はい」

弱々しい返事のあとに、沈黙が落ちる。夕方の風が、建物の間を抜けていった。五条は苛立ちそうになるのを、なんとなく飲み込んだ。そして、ぽつりと陽毬がつぶやく。

「……すみません」
「は?」

五条は足を止めた。怒りからでも呆れからでもない。ただ本当に、陽毬の発した言葉の意味がわからなかったからだ。

「何が」

陽毬は視線を落としたまま、指先を握りしめる。

「私が……前に出られなくて……」

ああ、と五条は思った。

(そっちか)

「だから、後方支援に……」

五条は眉をひそめた。

「……お前さ」

声が、少しだけ低くなる。いつも通りに言えばいいのに、なぜかそれができない。

「それ、ペナルティかなんかだと思ってんの?」

陽毬が、はっと顔を上げる。その目に浮かんでいるのは怯えでも涙でもない。ただ、理解できないものを前にしたみたいな戸惑いだった。

(……マジで、そう見えてんのかよ)

「違う」

五条は即答した。

「後ろの方が、お前の術式は刺さるだろ」

今日の動きを見ればわかる。全体の呪力の波が滑らかになっていた。あれがあるだけで、面倒が大幅に減る。

「全体が安定してた。あれが一番楽な配置だった」

楽。五条は深く考えずに言った。ただの事実だったからだ。

「お前がダメだから後ろ、じゃねーし」

陽毬の表情が、わずかに揺れる。

(……なんだ、その顔)

嫌がっているわけでも、怖がっているわけでもない。ただ、どこか――ほどけるみたいな表情だった。

「……ありがとうございます」

礼を言われる筋合いがない。単なる配置の話だ。適材を適所にあてがうのは、仕事の基本だ。自分はそれをやっただけだ。

「礼言われることでもねーだろ」

戸惑いと照れから、少し不機嫌に返してしまう。五条は足早に歩き出した。陽毬の足音が、少し遅れてついてくる。前を見たまま、五条はぼんやり考える。

(何もしてねーのに、そんな顔すんのかよ)

さっきから声を抑えていることに、この時点ではまだ、五条は自分で気づいていなかった。
七海と灰原の声が前方から聞こえる。それでも後ろの空気は、さっきより少しだけ軽い。五条は舌打ちしそうになって、やめた。

(……面倒だな)

面倒なのに、嫌じゃない。その慣れないくすぐったいような感覚が、五条はいちばん面倒に感じていた。