任務が終わった直後の空気は、いつも少しだけ緩い。
張り詰めていた神経がほどける瞬間の、甘いだるさ。
戦闘の熱が、体の奥でまだ微かに残っている。
息を吐くたびに、現実の重さがゆっくり戻ってくるような感覚だった。
五条は歩きながら、指先で首元を軽く掻いた。
校舎へ戻る道は静かで、遠くで鳥が鳴いている。
夕方の光が建物の隙間から差し込み、地面に長い影を落としていた。
前を行く七海と灰原は、いつも通りの距離感で話している。
反省会というほど堅くもなく、雑談というほど軽くもない。
任務帰り特有の、仕事の延長みたいな会話だ。
七海は一定の歩幅を崩さず淡々と話し、灰原はその横で軽く相槌を返す。
二人とも、さっきまでの戦闘の気配をほとんど引きずっていない。
(……ま、今日のは悪くなかった)
そう思いながらも、五条の視線は自然と後ろへ滑る。
陽毬がいる。
少し遅れて歩きながら、視線が落ち着かない。
周りを見ているようで、どこも見ていない。
足取りは乱れていないのに、どこか硬い。
(……何だよ)
面倒の気配がした。
今日の任務は、運が良かったわけじゃない。
配置が良かった。それだけの話だ。
なのに、あの顔はなんだ。
思い返すと、任務中から妙だった。
廃ビルは、外から見るより中が狭かった。
階段の踊り場は暗く、通路は無駄に曲がっている。
呪力の気配が薄くなったり濃くなったりして、湿った膜のようにまとわりつく。
古い鉄と埃の匂いが、喉の奥にざらついた感触を残す。
最初に足を止めたのは七海だ。
「……配置が不自然ですね」
「だよね。嫌がらせって感じ」
灰原が軽い声で同意する。
だが、その目は笑っていない。
その少し後ろで、陽毬が拳を握っているのが五条には見えた。
いつも通りだ。
陽毬は緊張すると、ああやって指先が固まる。
(このタイプの現場、あいつを前に出すと止まるな)
止まるだけならまだいい。
止まった瞬間、全体が崩れる。
――いや、正確には、崩れる芽が出る。
戦闘というのはそういうものだ。
(めんどくせ)
だから五条は決めた。
だがそれを、陽毬に説明する気はなかった。
「陽毬」
呼んだ声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
いつもの調子で呼べばいいのに、なぜか音量が出ない。
陽毬がびくりと肩を震わせて、顔を上げる。
(……いや、そんな反応するなら、余計うるさくできねぇだろ)
自分の中で勝手に言い訳を作りながら、五条は続ける。
「お前、後ろな。後方支援」
短く。命令形で。
余計な言葉は足さない。
陽毬が一瞬固まった。
理解したのか、していないのか曖昧な顔のまま、小さく頷く。
七海は何も言わなかった。
灰原も、少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「了解です」
「うん。頼りにしてるよ!」
頼りにしてる、という灰原の声に、陽毬がわずかに肩をすくめた。
五条はそれを見て、眉をひそめる。
(……なんだその反応)
だが、今は構っている場合じゃない。
「来るぞ」
七海が低く言い、次の瞬間、曲がり角から呪霊が滑り出してきた。
数は多くない。
ただし、動きがいやらしい。狙いが散っている。
こちらの集中を削るような動きだ。
(だから嫌なんだよ、こういうの)
五条は前へ出た。
雑に、というのは動きが荒いという意味ではない。
余計な迷いがない、という意味だ。
――そして、意外なほど噛み合った。
陽毬が後ろで術式を回す。
空気が整う。
呪力の波がなだらかになる。
さっきまで感じていた細かい揺れが、すっと消える。
視界のノイズが減る。
判断が速くなる。
七海の判断が迷わない。
灰原の踏み込みが軽い。
呪霊の嫌がらせみたいな揺さぶりが、効かない。
(……楽、だな)
五条は内心でそう思った。
だから思わず零す。
「やっぱ後ろで回してる方が正解か」
独り言みたいな声だった。
褒めたつもりはない。
ただの事実確認だ。
呪霊の核を潰す。
残りは七海と灰原が処理する。
連携の速度が速い。
終わり方が綺麗だ。
戦闘は、拍子抜けするほど短く終わった。
呪霊の残穢が消えるのを見届けながら、七海が息を吐く。
「……安定していましたね」
「だね。めっちゃやりやすかった!」
灰原が明るく言った。
陽毬は笑わない。
表情が、どこか引きつっている。
(……なんだよ)
五条は、また面倒の気配を感じた。
帰路。
ビル街の隙間を抜けて、校舎へ戻る道。
前の二人は会話を続けている。
いつも通りだ。
終わった任務を必要以上に引きずらないのが、この二人のいいところでもある。
五条は歩調を落とし、陽毬の隣に並んだ。
普段なら、それだけで距離を取られる。
反射みたいに半歩離れるのが、いつもの癖だ。
けれど今日は、離れなかった。
肩が触れそうな距離のまま、数歩。
そこでようやく我に返ったみたいに、陽毬は小さく身を引いた。
その遅れに、五条だけが気づいていた。
「……さっきは、安定してたな」
事実を告げた。
だが、陽毬は驚いたように目を動かし、曖昧に頷く。
「……はい」
返事が弱い。
沈黙が落ちる。
夕方の風が、建物の間を抜けていった。
五条は苛立ちそうになるのを、なんとなく飲み込んだ。
そして、ぽつりと陽毬がつぶやく。
「……すみません」
五条は足を止めた。
「は?」
怒りでも呆れでもない。
ただ本当に意味がわからなかった。
「何が」
陽毬は視線を落としたまま、指先を握りしめる。
「私が……前に出られなくて……」
ああ、と五条は思った。
(そっちか)
「だから、後方支援に……」
五条は眉をひそめた。
「……お前さ」
声が、少しだけ低くなる。
いつも通りに言えばいいのに、なぜかそれができない。
「それ、ペナルティかなんかだと思ってんの?」
陽毬が、はっと顔を上げる。
その目に浮かんでいるのは怯えでも涙でもない。
ただ、理解できないものを前にしたみたいな戸惑い。
(……マジで、そう見えてんのかよ)
「違う」
五条は即答した。
「後ろの方が、お前の術式は刺さるだろ」
今日の動きを見ればわかる。
全体の呪力の波が滑らかになっていた。
あれがあるだけで、面倒が減る。
「全体が安定してた。あれが一番楽な配置だった」
楽。
五条は深く考えずに言った。
ただの事実だったからだ。
「お前がダメだから後ろ、じゃねーし」
陽毬の表情が、わずかに揺れる。
(……なんだ、その顔)
嫌がっているわけじゃない。
怖がっているわけでもない。
ただ、どこか――ほどけるみたいな。
「……ありがとうございます」
礼を言われる筋合いがない。
配置の話だ。仕事の話だ。
「礼言われることでもねーだろ」
少し不機嫌に返す。
五条は歩き出した。
陽毬の足音が、少し遅れてついてくる。
前を見たまま、五条はぼんやり考える。
(何もしてねーのに、そんな顔すんのかよ)
さっきから声を抑えていることに、この時点ではまだ、自分で気づいていなかった。
七海と灰原の声が前方から聞こえる。
それでも後ろの空気は、さっきより少しだけ軽い。
五条は舌打ちしそうになって、やめた。
(……面倒だな)
面倒なのに、嫌じゃない。
その感覚が、いちばん面倒だった。