11.あなたに触れるための適温

夕方の教室には、昼間とは違う静けさがあった。窓の外では、沈みかけた陽が校舎の端を赤く染めている。
訓練場から聞こえていた音もいつの間にか遠ざかり、開けっぱなしの窓から入り込む風だけが、紙の端をかすかに揺らしていた。

任務報告用の書類が、机の上に広げられている。
今日の任務は、郊外で発生した低級呪霊の処理だった。難易度そのものは高くない。
ただ、補助監督との連携報告や現場記録の確認がやたら細かく、結局こんな時間まで残される羽目になっていた。

「……終わりました」

陽毬が、小さく息を吐く。最後の書類をまとめながら、安心したように肩の力を抜いた。

五条は窓際の席に座ったまま、その様子をぼんやり眺めていた。
本来なら、とっくに帰っていてもおかしくない。五条ひとりなら、報告書なんて適当に放り投げて終わりだ。
けれど今日はそのまま教室に残っていた。陽毬と同じ任務だったからだ。
こういった細かい書類整理は、陽毬の方が丁寧に仕上げられるので任せていたのだ。

「やっと終わったか」

気の抜けた声で言うと、陽毬が少し申し訳なさそうに視線を向けてくる。

「すみません、お待たせして……」
「いや、俺も関係者だし」

そう返しながら、五条は椅子の背にもたれた。

陽毬は前よりずっと柔らかくなった。最初の頃みたいに、五条の前で顔を青くしたり、逃げ腰になったりはしない。
もちろん緊張が完全に消えたわけではない。それでも、こうして同じ空間にいても、空気が張り詰めなくなった。

「……どうかしましたか? 五条先輩」

視線に気づいたのか、陽毬が困ったように首を傾げる。五条は少しだけ考えてから、ぽつりと言った。

「お前、最近普通に笑うようになったよな」

その瞬間、陽毬がぴたりと止まる。わかりやすく固まって、それから少しだけ視線を泳がせた。

「え……」
「前はもっと警戒してただろ」

責めるでもなく、ただ事実を言う。陽毬はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……五条先輩が、怖いままでもいいって言ってくれたので」

静かな声だった。

「そのままでいいって、言ってくれたから……」

五条は一瞬だけ黙る。確かに、そんなことを言った覚えはある。けれど、陽毬がそれをここまで大事に抱えていたとは思っていなかった。

「だから、ちょっとだけ安心してます」

そう言って、陽毬が少し照れたみたいに笑う。その笑い方が、妙に自然だった。肩の力が抜けていて、無理をしていない。本当に、安心している顔だった。

(……そんなことでよかったのかよ)

もっと難しいものだと思っていた。距離感だとか、接し方だとか、面倒な調整が必要なのだと。
けれど結局。否定しなかった。無理に変えようとしなかった。ただそれだけで、陽毬はこんなふうに笑う。

(……なんか)

胸の奥が、じわりとあたたかくなる。陽毬はそのまま鞄をごそごそ漁って、「あ」と声を漏らした。

「そうだ、これ」

小さな袋を取り出す。コンビニで売っている、一口サイズの焼き菓子だった。

「帰りに見つけて……甘いの好きですよね」

少し遠慮がちな声だった。けれど、どこか嬉しそうでもある。五条は袋を受け取り、中を覗いた。

「へぇ、うまそう」

一つ摘まんでみる。そのままにしていると、陽毬が小さく首を傾げた。

「食べないんですか?」
「んー」

五条は少し考えるふりをしてから、にやりと笑う。

「どーせなら一緒に食おーぜ」
「え?」

陽毬が目を瞬かせる。五条は気にせず袋を軽く揺らした。

「ほら、口開けろ」
「……えっ」

戸惑いで固まる陽毬を見て、五条は少しだけ笑った。

「いいから」

逃がさない調子だった。陽毬はしばらく迷ったあと、本当に少しだけ口を開く。その瞬間、五条はそこへぽいと菓子を放り込んだ。

「……!」

陽毬がびくっと肩を揺らす。突然すぎたらしい。慌てて咀嚼しながら、困ったように五条を見る。その顔が、妙に可愛かった。

(……あー、ダメだなこれ)

思っていたよりずっと、胸の奥が満たされる。陽毬が取り繕わない姿を見せるだけで、こんなに自分の機嫌がよくなるとは思わなかった。
そのとき。

「……君たち、何してるの」

後ろから、呆れた声が落ちてきた。振り向けば、教室の後ろ扉に夏油傑が立っていた。
いつから見られていたのか。五条の手にはまだ菓子の袋がある。陽毬は口の中のものを飲み込もうとして、わかりやすく慌てていた。
その場に数秒の沈黙が落ちる。

「……いや」

珍しく、五条が言葉に詰まる。夏油がゆっくり瞬きをしたあと、堪えきれないみたいに吹き出した。

「ははっ、何その顔」
「うるせぇ」

五条が眉を寄せる。だが、夏油は楽しそうに笑ったままだ。

「……あ、あの、私……お先に失礼します」

陽毬が、まだ少し赤い顔のまま鞄を抱え直す。完全に照れていた様子だった。さっき突然菓子を口に放り込まれたせいで、たぶんまだ頭が追いついていないのだろう。
五条は椅子に座ったまま、そんな陽毬を見上げる。

「ん。気をつけて帰れよ」

何気ない調子で言うと、陽毬は小さく頷いた。

「はい。お疲れ様でした」

それから、夏油にもぺこりと頭を下げる。

「夏油先輩も、お疲れ様です」
「うん、お疲れ様」

夏油が柔らかく笑う。陽毬はそのまま教室を出ていった。廊下を歩いていく足音が、少しずつ遠ざかる。
やがて静けさが戻ると、教室の中には夕方の風だけが残った。

「……」

再び、数秒の沈黙が二人の間に漂う。そのあと夏油が、いかにも面白かったというような声を出す。

「いや、悟があんなことするとは思わなかったな」
「何が」

五条は机に頬杖をついたまま、気だるげに返した。だが夏油は笑っている。口元に手を当ててはいたが、完全に面白がっている顔だった。

「『口開けろ』はだいぶ距離近いでしょ」
「別に大したことしてねぇだろ」
「陽毬ちゃん、固まってたけど」
「……」

否定できない。五条は視線を逸らしながら、小さく舌打ちした。夏油はその反応を見て、さらに笑う。そして窓際へ歩きながら、ぽつりと言った。

「でも、まぁ、だいぶ変わったよね、陽毬ちゃん」

その言葉に、五条は何となく視線を戻した。夏油は窓の外を眺めている。夕焼けはもう薄くなり始めていて、空の色がゆっくり夜へ沈みかけていた。

「前は、君の前だとずっと緊張してたのに」
「……まぁな」
「今は普通に笑うし、ちゃんと気も抜いてる」

夏油はそこで少し笑った。

「さっきなんか、完全に『女の子』だったじゃないか」

五条は何も言わない。けれど、その言葉は妙にしっくりきた。
女の子。
たしかに、そうだった。怖がって、怯えて、身を固くしていた頃とは違う。安心して、笑って、少し困った顔をして。そういう柔らかい部分を、今は自然に見せるようになっている。しかも、それを見せる相手の中に、自分が入っている。

(……あー)

胸の奥が、またじわりと熱を持つ。

「……まぁ、そうだな」

五条は短く返す。胸の奥が、妙に満たされている。理由はわかっていた。陽毬が安心して笑っている。ただ、それだけでいいと思ってしまう。

「だいぶ重症だね」

夏油が吹き出す。
笑い声を聞き流しながら、五条はもう一つ菓子を摘まんだ。甘い匂いが、周囲にやわらかく漂う。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと群青に沈みかけていた。開けっぱなしの窓から入り込む風が、熱を持った頬を静かに撫でていく。

さっきまでここにいた、小さな気配を思う。
笑う声。 甘いものを差し出す細い指先。困ったみたいに揺れる目。
一つ一つが鮮明に目蓋の裏に残っている。
今はこの穏やかな時間を、もう少しだけ味わっていたいと五条は思っていた。