その日、先に陽毬を見つけたのは、五条の方だった。
夕方の淡い光の中に、彼女はただ佇んでいた。なにをするでもなく、高専の廊下の窓に手をかけて外側の景色をぼんやりと眺めている。そんな動作をしているだけなのに、五条の目にはやけに止まってしまう風景だった。窓から差し込む夕日が、周りの輪郭を少しだけ曖昧にして、景色を一段遠くに押しやっている。その中で陽毬の姿が、なぜかくっきりと見えた。細い肩も、律儀に揃えられた足先も、彼女自身の柔らかい在り方さえも、全部が目についてしまう。
これも惚れた側の欲目というものなのだろうか。自分のどうにもコントロールが難しい心の動きに軽く息を吐きながら、五条は陽毬に近づいた。
「なにしてんの」
小さな肩がびくりと跳ねる。振り向くより先に、誰の声かわかった顔をするのが、相変わらず彼女らしいと思った。
「……五条先輩」
制服のポケットに手を入れながら、五条は陽毬に歩み寄る。足音は隠さなかったが、距離だけは無意識に調整していた。近づきすぎればまだ彼女は固まってしまうし、離れすぎれば自分の方に不満が残る。その加減を、以前よりうまく取れるようになっていた。陽毬に近づきたいとは思うが、別に怖がらせてまでそうしたいわけでもない。気づけば、いつもより半歩手前で止まっていた。
「で、ぼーっとしてた理由は?」
なんでもない調子で聞いてみる。陽毬は一度口を開きかけて、それから閉じた。誤魔化そうとしてやめた、そんな動作だった。
「……ちょっと、疲れてただけです」
「ふーん」
五条は短く返す。それが恐らく全部ではないことはわかるが、無理に聞き出す気もなかった。今はそれでいいと思う。
壁に背中を預けると、視界の端で陽毬の肩がわずかに強張るのが見えた。
(……完全には抜けてねぇか)
昨日よりはましに見えるが、まだ緊張が残っているようだった。どうにも仕組みがわからないが、症状は良くなったり、ふとしたことでまたぶり返したりするもののようだ。そんなに簡単に解決するようなものでもないし、自分の意志だけで全てどうにかできる類のものでもないらしい。
「……まだ慣れねぇ?」
「……すみません」
「なんで謝んの」
即座に返す。責めたつもりは毛頭ない。ただ、確認したかっただけだった。
「別にさ、距離取りたいなら取ればいいけど」
軽く言いながら、様子を見る。肩は少し上がっているが、陽毬は逃げる気配はなかった。
「そんな露骨に構えられると、俺も結構傷つくんだけど?」
半分は冗談で言っただけだったが、その一言に対する反応は思ったよりも真っ直ぐなものだった。
「……え」
意外そうに、陽毬の目が丸くなる。これまで、怯えた反応を見せられることでこちらがどんな気持ちでいたのか、本気でわかっていなかったような表情だった。つまりそれだけ、恐怖にかられると五条を見る余裕が無かったのだろう。彼女は今、ようやくこちらの様子を理解できるくらいにまで緩むようにはなってきているのだ。
「ほんと、ですか」
「半分くらいな」
五条はそれ以上はわざと言わなかった。説明するほどのことでもないし、陽毬が自分のことを考えて心を動かしてくれている様を見るのは、胸がわずかに甘く疼くような感覚がする。そんな陽毬の様子を、なるべく長く見ていたかった。
陽毬は少し黙って、それからぽつりと落とす。
「……どうしたら、いいんですか」
五条は一瞬だけ言葉を止めた。
「は?」
「その……どうしたら、ちゃんと……」
かなり戸惑っているのか、陽毬の言葉はまとまらず、五条に伝わってくる前に分散してしまう。何を聞いているのか、自分でもよくわかっていない顔だった。しかし、なんとかこちらに対して誠意を向けたい様子なのはわかる。
五条は視線を少し反らして、上を向いた。
「ちゃんとってなに」
それだけ言う。陽毬がわずかに顔を上げる。
「別にそのままでよくね?」
五条は余計な言葉は足さずに言い切った。本当に、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「でも、それだと……」
「なに」
「また、五条先輩に嫌な思いを……」
その言葉を聞いて、五条は少し眉を寄せた。
一歩だけ、距離を詰める。逃げようと思えば逃げられる距離だ。けれど、陽毬は動かなかった。昨日のパニックになっていた場面なら、ここで確実に下がっていたはずだ。上から眺めても、陽毬はその場を離れない。それを確認してから、五条は言った。
「それ決めんの、お前じゃねぇだろ」
視線の高さを合わせるように顔を近づける。ぎりぎり触れない距離だった。
「嫌だったらとっくに離れてるけど」
言葉に事実だけを乗せる。陽毬の瞬きが、速かったのがゆっくりになる。
その変化を見ながら、五条は昨日の出来事を思い出していた。手のひらの感触。体を引いて導いても、手を離されなかったあの時間。初めてお互いの間の距離がゼロになった瞬間だった。だからずっと、陽毬がどう思っていたか気になっていた。
「……てかさ」
視線を外して続ける。
「昨日の、どうだった?」
「……え」
陽毬の反応が一拍遅れる。
「手、繋いだやつ」
五条は簡単に言った。余計な説明もしなかった。陽毬の呼吸が、わかりやすく一瞬だけ止まる。
「……怖く、なかったです」
小さく、でも迷いはなくはっきりした声だった。五条はわずかに黙る。
「……そっか。ならいい」
それだけ短く返す。けれど、それで十分だった。さっきより少しだけ空気が軽い。
そのとき、陽毬が口を開いた。
「……逃げたら、どうしますか」
「ん?」
「その……私が、五条先輩のことが怖くなったら」
曖昧な言い方だったが、なんとなくの意味は伝わってくる。またそうなる可能性を示唆したいだけなのか、それとももっと別の意味合いが込められているのか。どちらにせよ、自分がどうしたいのかは、五条はもう迷わなかった。
「別に、どうも。なんなら、追っかけてやろうか?」
冗談めかして五条は軽く笑う。視線を陽毬に移すと、彼女はきょとんとしながら五条を見ていた。
「でもさ、お前なら、また戻ってくると思うんだよな」
これまでの陽毬を見てきて、そう思った。彼女はなんだかんだ、逃げ出すような人間ではないことはもうよくわかっていた。陽毬は否定しなかった。小さく息を吐く。肩の力が抜けていて、さっきまでより明らかに楽しそうだった。
「……五条先輩がそう言ってくれるなら、このままでいます」
五条は一瞬だけ間を空けて、それから目を細める。
「だからそれでいいって言ってんじゃん」
陽毬の表情がさらに緩む。しばらくの間、二人はそうしていた。それ以上なにもしなかったし、近づきもしない、触れもしない距離だったが、それだけで十分だった。どんなにぎこちないような関係に見えてもよかった。それ以上に確かな繋がりが、2人の間にはもうできあがっているような気がした。
五条は壁から背中を離し、軽く手を振る。
「じゃ、俺戻るわ」
それだけ言って歩き出す。背中に視線を感じるが、振り返らなかった。
そのまま廊下を抜けながら、五条はわずかに口元を緩めた。一進一退を繰り返しているようで、確実に陽毬が自分に対して向ける気持ちが柔らかくなっていることが、五条の心を明るくしていた。