14-1.受け止められるということ@
数日経っても、落ち着く気配はなかった。あの時の感覚が、そのまま残っている。ほんの少しの違いのはずなのに、それだけが妙に引っかかって、意識から外れない。
時間を置けばどうにかなると思っていたのに、むしろ逆だった。思い出すつもりはなくても、勝手に浮かぶ。距離の感じ方も、視線の向け方も、全部そのまま残っている。
分かっている。あれは特別なことじゃない。ただひよりが自分で選んで、そうしているだけだということも、それが自然な変化だということも。
それでも、その先を考えた瞬間に、うまく息ができなくなる。
今までと同じでいられるのか、分からなくなる。
ほんのわずかな差のはずなのに、それがこのまま広がっていくような気がして、放っておけなかった。
「……」
その日はベッドに腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。考えるだけ無駄だと分かっているのに、頭は勝手に同じところをなぞる。
そのうち、息を吐くのと同時に立ち上がっていた。理由をつける前に、体が動いていた。ドアを開けて、廊下に出る。
どこに行くかなんて、最初から決まっていた。
軽くノックをする。間を置くつもりもなく、ドアが開いた。
「……恵?」
ひよりが、少しだけ驚いた顔をする。
「どうしたの」
「……別に」
それだけ言って中に入る。用事があるわけじゃない。ただ、ここに来た。来ずにはいられなかった。それだけだった。
ひよりはそれ以上聞かずに、自然に体をずらす。
「座る?」
「ああ」
隣に腰を下ろす。
距離は、前と同じはずだった。それでも、やっぱり違う。近いだけなのに、その近さが妙に意識に残る。
「……」
言葉は続かない。ひよりも何も言わない。その沈黙は嫌じゃないはずなのに、どこか落ち着かないものだった。
「……どうしたの」
静かに聞かれる。
「……何でもない」
短く返す。それ以上は言わない。言えなかった。言えば、うまく収まらなくなる気がした。
ひよりはそれ以上踏み込まない。その距離の取り方が、逆に引っかかる。
「……」
気づけば、また見ている。目が合い、逸らされない。
そのまま、わずかに間が空く。前なら、それで終わっていたはずの時間が、今は終わらない。
「……」
手が動く。止めるより先に、触れていた。ほんの少しだけ強く、ひよりの腕を掴む。
「え?」
驚いた声が上がる。それでも、ひよりは逃げなかった。そのまま受け止めている。その状態が、余計にまずいと思った。
距離を詰める。さっきまで曖昧だったものが、一気に形を持つ。息が詰まる。ここから先に進めば、戻れなくなる気がした。
「……っ」
小さく息を吐いて、手を離す。一歩下がる。思わず距離を取っていた。
「……悪い」
短く言う。それ以上は続けられなかった。離れた方がいいと思った。このままいたら、抑えが利かなくなる。
立ち上がって、背を向ける。その瞬間だった。
「……恵」
名前を呼ばれた。足が止まる。振り返ると、ひよりがすぐ近くまで来ていた。さっきよりも、自分から距離を詰めている。真っすぐな瞳で。
「恵から近づかれるの、嫌じゃないよ」
静かな声だった。迷いがない声。
「ちゃんと分かってるから」
視線を逸らさずに言う。
「無理してるならやめてほしいけど、恵がそうしたいなら、私は平気」
「……」
ひよりに触れるのを止める理由を探す。けれど、見つからなかった。さっきまであったはずの焦燥が、ひとつずつ消えていく。残るのは、それでも離れたくないという感覚だけだった。
「……そうかよ」
小さく呟く。それ以上は言わなかった。
そのまま手を伸ばして、ひよりを引き寄せる。さっきよりも、迷いはなかった。ただ、離さないようにするだけの力で、俺はひよりを抱きしめた。
ひよりは何も言わない。そのまま受け入れている。それだけで、十分だった。
肩に額を預ける。張っていたものが、ゆっくりほどけていく。ひよりの手が、そっと頭に触れる。指先が、ゆっくりと髪を撫でる。その感触に合わせて、呼吸が整う。
何も考えなくていい気がした。ただ、ここにいるだけでいい。その感覚が、内側に静かに広がる。
「……」
無意識に、少しだけ体を寄せていた。さっきよりもお互いの距離が近くなる。それでも、もう止めようとは思わなかった。
ひよりの体温が、はっきりと伝わる。それを確かめるように、腕にわずかに力が入る。
「……」
顔を上げる。そのまま、ゆっくりと触れた。一度、軽く唇を重ねて離す。それで終わる気にはならなかった。もう一度、距離を詰める。さっきよりも自然に、迷いなく、触れたまま少しだけ長く留まる。
ひよりの呼吸が、わずかに揺れる。その変化を見て、触れ方が少しずつ変わる。確かめるようにしながら、触れ合いは徐々に深くなっていく。
「……」
一度離れて、また触れる。同じことを繰り返すみたいに、何度か。急ぐつもりはなかった。ただ、そこにあるものを確かめるように触れたかった。
ひよりの指が、服を軽く掴む。その反応に、わずかに息が乱れる。
「……ひより」
低く落とす。そのまま、さらに距離を詰めた。触れ方が変わる。さっきまでとは違う。確かめるだけじゃなくて、離したくないと思っている触れ方になる。
「……」
ひよりの呼吸が近い。そのまま、俺はもう一度だけ触れた。今度は、迷わなかった。
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