13.ほんの少しの変化

 廊下に出て、そのまま歩き出したところで、足が止まった。
 少し先の洗面台の前に、ひよりが立っていた。鏡に向かって、自分の顔を確かめるように見ている。その様子が、なぜか目に留まった。何をしているのか分からないまま、視線だけがそこに引っかかる。
 そのまま一歩近づいたところで、ひよりが気づいたらしい。鏡越しに目が合う。
 一瞬だけ、どちらも動かなかった。それから、ひよりが振り返る。

「恵」

 少しだけ驚いたように、それでもすぐにいつも通りの調子で笑う。

「何してんだ」

 そう聞くと、ひよりは少しだけ言葉を濁して、それから頬に触れた。

「ちょっと、試してただけ」

 その仕草で、違和感の正体に気づく。

「……何かしてるだろ」

 ひよりは一瞬だけ目を瞬かせて、それから照れたように視線を逸らした。

「分かる?」

 軽く笑いながらも、どこか落ち着かない様子で言う。
 近づくと、違いははっきりした。目元にほんのわずか色が乗っていて、それだけで表情の見え方が変わっている。唇にも薄く光があって、普段よりも視線を引き留める。

「ちょっとだけ、お化粧してみたの」

 ひよりはそう言って、鏡越しに自分の顔を見たあと、こちらに視線を戻す。

「変かな」

 その聞き方は、いつもと同じなのに、受け取り方だけが変わっていた。

「……別に」

 短く返す。変じゃない。むしろ、目が離れずにいる。その理由を考える前に、ひよりが少しだけ視線を落として、小さく続けた。

「……恵にも、かわいいって思ってもらえるといいなって思って」

 軽く言ったつもりなのかもしれない。けれど、その一言で、さっきまで曖昧だったものが、はっきりと形を持つ。
 誰かに言われたわけでも、無理に合わせたわけでもない。ただ、自分でそうしたいと思って、ひよりはそうしている。
 ——その中に、俺がいる。

「……そうかよ」

 ようやくそれだけ返すと、ひよりは少しだけ安心したように笑った。

「変じゃないなら、よかった」

 そのままもう一度鏡に視線を戻す。その横顔を見ていると、さっきまでとは違う形で引っかかりが残る。言葉にするほどはっきりしたものじゃない。それでも、確かに違う。

「……お前、前となんか違うな」

 そう言うと、ひよりが振り返る。

「え?」
「……いや」

 うまく説明できないまま、言葉を濁す。
 けれど、違う。前と同じ距離にいるはずなのに、その距離の意味だけが変わっているような感覚があった。

「……変わった」

 思ったままが口に出る。ひよりは一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ嬉しそうに笑った。

「え、そう?」
「……悪い意味じゃねぇ」

 それだけ付け足すと、ひよりは小さく頷いた。その仕草が、前よりも落ち着いて見える。
 少しの沈黙が落ちる。さっきまでとは違う、静かな空気だった。
 そのままひよりが横を通り過ぎようとしたとき、無意識に手が動いた。腕を掴む。強く引くわけでもなく、ただその場に留めるだけの動きだった。
 それでも距離は変わる。さっきと同じはずの距離なのに、意味が違う。
 ひよりがこちらを見る。逃げる様子はない。ただ、じっと見上げてくる。その視線が、思っていたより近い。
 そのまま手を伸ばして、頬に軽く触れる。確かめるように、指先でなぞる。ほんのわずかな違いしかないはずなのに、そのわずかさが余計に意識を引き寄せる。

「……ほんとに、ちょっとだな」

 小さく呟く。ひよりは何も言わない。ただ、視線を逸らさずにこちらを見ている。それが、余計に距離を曖昧にする。

「……こういうの」

 言葉を探しながら、ゆっくり続ける。やめろと言うようなものでもない。ひよりが自分で選んでやっていることだと分かっているし、そこに口を出すつもりもない。それでも、どうにもならないものは残る。

「……困る」

 それだけ言うと、ひよりがわずかに息を呑む。

「……困る?」
「……意識するからな」

 視線を逸らしたまま言う。それ以上は続けなかった。ひよりはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑う。

「……そっか」

 その声は、さっきより少しだけ柔らかい。ようやく手を離す。ひよりはそのまま鏡の前に戻るが、さっきより少しだけ動きがゆっくりしていた。同じ場所にいるはずなのに、空気の感じだけが変わっている。
 変わったのは、ほんの少しのはずだった。それでも、そのわずかな違いだけで、見え方が変わる。
前と同じはずなのに、同じじゃない。そのことだけが、やけに残った。



 部屋に戻ってからも、特に変わったことはしていない。制服を脱いで、いつものように適当に放り出して、ベッドに腰を下ろす。
 それだけの動作なのに、どこか手順がずれている気がした。何をしているわけでもないのに、意識だけが別のところに引っ張られている。

「……」

 小さく息を吐いて、壁に背を預ける。さっきの光景が、そのまま残っていた。
 鏡の前に立っていたひよりの横顔。ほんの少しだけ変わった目元と、唇の光り方。それだけのはずなのに、やけに印象が離れない。

「……」

 思い出すつもりはなかった。けれど、勝手に浮かぶ。しかも同じところばかり、繰り返すみたいに。

「……ほんとに、ちょっとの違いだろ」

 誰に向けるでもなく呟く。変わったのは、ほんの少しだ。それでも、あの距離で見たときの感じは、簡単には戻らない。
 あれは、ただの変化じゃない。距離の取り方も、視線の向け方も、前とは違っていた。
 ——分かってやってないのが、一番厄介だ。

「……」

 目を閉じる。静かな部屋の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく感じられた。
 落ち着いたはずなのに、どこか落ち着いていない。理由は考えなくても分かっている。分かっているからこそ、面倒だった。

「……ほんと、厄介だな」

 小さく呟く。それでも、しばらくは、そのままだった。


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