夏の終わりに吹いた風
高専の校舎は、夏になると少しだけ静まる。蝉の声が石畳に落ちるたび、昼の熱がゆらりと揺れて、景色の輪郭が柔らかく滲んだ。窓から差し込む光も、明るいはずなのにどこか重たく、時間の進み方をわずかに緩めているようだった。
夏油傑が受け取った任務書には、簡潔な文面だけが記されていた。
山間の小村にて、狐に類似する呪霊反応の増大。代々、特定の家系が鎮めてきたが、近年不安定。必要と判断されれば祓除。滞在任務――数日。
任務書を閉じると、隣からひょいと身を乗り出してくる気配があった。
「狐だってさ」
五条悟が、面白がるように声を弾ませる。
「いかにも山奥の因習って感じ。完全にホラーじゃん。ま、俺らなら余裕だと思うけど」
夏油は苦笑して小さく息を吐いた。
「油断するなよ、悟。遊びじゃないんだから」
軽くたしなめると、五条はサングラスの奥で目を細め、悪びれもせず笑う。
それ以上は何も言わず、二人は校舎を出た。
駅までの道を並んで歩くあいだ、会話は途切れ途切れに続いたが、任務の内容を深く掘り下げることはなかった。任務は任務だ。考えるのは、現地に着いてからでいい。
改札を抜け、列車に乗り込む。
扉が閉じると、車体はゆっくりと都心を離れていった。窓の外からビルが減り、看板が消え、電線の数も少なくなっていく。
やがて田畑の緑が広がり、遠くに山の稜線が見えた。湿った風が窓の隙間から入り込み、土と水の匂いが混じる。高専の乾いた石畳とは違う、柔らかな匂いだった。
夏油は、流れていく景色を眺める。山へ向かう時は、いつも少しだけ感覚が変わるような気がする。日常の表面が薄くなり、その下で蠢いているものが近づいてくるような、そんな気配がある。
隣では、五条が窓に肘をついて外を見ていた。
「静かだな」
ぽつりと落ちたその言葉に、夏油も無言で同意する。穏やかな景色が、どこまでも緩やかに続いていた。
けれど、その静けさがそのまま穏やかさを意味するわけではないことを、彼らは知っていた。
列車を降り、さらに車で揺られる。舗装の荒れた道に入る頃には、陽は傾き始めていた。
村は小さかった。
剥がれかけた舗装の道が続き、低い屋根の家が並んでいる。戸は閉じられ、人の気配はあるのに、声だけが聞こえない。家々の隙間から向けられる視線だけが、二人の存在を確かに追っていた。
歓迎されているとは言い難い。だが、あからさまに拒絶されているわけでもない。呪術師に向けられる視線など、どこへ行っても大きくは変わらない。必要とされながら、深く理解されることはない。その曖昧な距離に、夏油は慣れていた。
案内役の男は最低限の言葉だけを口にし、山を背負うように建つ大きな屋敷の前で足を止めた。
「……こちらです」
門をくぐった瞬間、空気が変わる。外の湿った重さとは違う、整えられた流れがあった。強い結界というほどではない。だが、呪力が穏やかに均されているのがわかる。長い時間をかけて、丁寧に手入れされてきた場所なのだろう。
戸が開く。
立っていたのは、若い女性だった。
第一印象は、静かな人、というものだった。肌の色よりも先に、周囲のざわめきを吸い取ってしまうような透明さが目に入る。艶のある髪が光を受けて柔らかく揺れ、その佇まいは山の影と自然に溶け合っていた。
「……来てくれたのね」
大きな声ではない。それでも、不思議とよく通る声だった。年齢は二人より上だろう。落ち着きがあり、この土地に長く立ち続けてきた人間だけが持つ静かな重みがあった。
彼女は、名前を春風花名と言った。その響きは、この屋敷に流れる空気によく馴染んでいた。
「高専から来ました。一年の夏油傑です」
「同じく、五条悟」
二人が頭を下げると、花名は穏やかに頷く。
「傑くんと、悟くんね。中へどうぞ」
不躾ではないのに、壁を感じさせない言い方だった。よそ者として迎え入れているはずなのに、その声音には奇妙な柔らかさがある。
五条は気にした様子もなく笑ったが、夏油は一瞬だけ、屋敷の奥へ視線を向けた。奥からは、かすかに鈴の音がした。
招かれた廊下は長かった。
古い木の匂いがする。けれど、板はよく磨かれていて、年月を重ねた屋敷特有の荒れは感じない。
花名が先を歩き、その背に淡い光が落ちる。白い首筋が、髪のあいだから一瞬だけ覗いた。
「……すげー美人だな」
五条が小声で耳打ちしてくる。忖度なく異性の容姿を評価するのは、彼にしては珍しいことだった。夏油は視線を逸らさないまま、低く返す。
「聞こえるよ」
五条は肩をすくめた。夏油は、自分の声がわずかに硬くなったことに気づく。
確かに整った顔立ちだった。だが、それだけではない。気になるのは、花名自身がまとっている気配だった。この屋敷の結界とも、山に満ちる呪の気配とも違う。どちらにも呑まれず、そのあわいに静かに立って、全てを均しているような存在感。
そのとき、花名がふと振り返った。ほんの一瞬、目が合う。彼女は驚いたようにわずかに目を見開き、それから何かを飲み込むように微笑んだ。
夏油は視線を外した。胸の奥に、小さな引っかかりだけが残る。
客間に通されると、畳の匂いがふわりと広がった。障子越しに山の影が見え、遠くでまた鈴の音がかすかに鳴る。
狐の気配は、確かにある。花名の呪力と絡み合い、どうにか均衡を保っているのがわかった。
花名は二人に茶を出したあと、しばらく障子の向こうの山を見つめたまま、静かに口を開いた。
「うちは代々、巫女の家系でね。舞によって呪霊を鎮める術式を継いできたの」
花名は湯呑みを両手で包みながら、静かに続ける。
「狐は、元は他の呪霊と変わらない存在だった。でも、この山に根付いて……災いとして形を持つようになったの」
視線が、障子の向こうの山へ向く。
「力は強かった。簡単に祓えるようなものじゃなかったの」
淡々とした口調のまま、言葉を重ねる。
「でも、あれも完全に自由なわけじゃなかった。この山に縛られていて、在り方も不安定だったの。人の流れひとつで、強くも弱くもなる」
遠くで、鈴の音が細く鳴る。
「だから……先祖は選んだの。祓うんじゃなくて、残すことを」
わずかに目を伏せる。
「消さない代わりに、こちらの術式に従わせる。山を守ることと引き換えに、存在を保つことを許したの」
静かな声だった。
「舞は、そのための術式。祓うためじゃない。流れ込んだ呪力を受けて、あれが暴れないように鎮め続けるためのもの」
湯呑みの縁を指でなぞる。
「契約を結んだのは先祖だけど、そのとき術式ごと縛りが組み込まれたの。だから血の中に残って、呪力が強く出た者に引き継がれる」
顔を上げる。
「つまり、あれは守る代わりに守られているの。どちらかが欠ければ、均衡はすぐに崩れる」
わずかに息を吐く。
「今までは、それで持ちこたえてきた。でも……最近は山に入る人が増えたでしょう」
障子の外へ視線を向ける。
「人が入るほど、外から呪力が流れ込む。その分だけ、あれの力も大きくなる」
言葉を選ぶように、間を置く。
「舞えば鎮まる。でも、すぐにまた揺らぐようになってしまったの」
夏油は黙って耳を傾けた。狐の呪力だけが不安定なのではない。その縛りを通して、花名の内側まで少しずつ蝕まれているのが感じ取れる。
「祓えば終わるかもしれない。でも、縛りを崩したら……私がどうなるのか、わからない」
誇張のない言葉だった。だからこそ、重い。
夏油はゆっくり息を吸う。
「暴走の兆候はあります。このままなら、被害が出る可能性がある」
花名は静かに頷いた。
「だから、あなたたちに依頼をしたの」
短い返答だったが、そこには迷いよりも覚悟があった。
夏油はしばらく考え、それから言う。
「帳で外部の出入りを制限します。結界で呪力の膨張も抑えて、花名さんの術式が通りやすい状態を、こちらで作ります」
花名は深く頷いた。
「ありがとう、傑くん。悟くんも」
心から安堵した声だった。均衡はまだ崩れていない。だが、今にも何かが起きてもおかしくないほど脆くなっている。
夏油は障子の向こうの山を見る。狐の気配は、近くで静かに息づいていた。
狐と花名の先祖が縛りを結んだ日に毎年行われるという奉納の舞は、三日後に行われるらしい。それまではこの家に滞在し、任務をこなすことになる。
この土地の時間は、東京の時間とは違う速度で流れている。そして、自分たちはやがて帰る、よそ者だ。その事実だけが、夏油の胸の奥に静かに沈んでいった。
それなのに――先ほど一瞬だけ向けられた花名のまなざしが、妙に離れなかった。あの目は、何を見ていたのだろう。自分たちは任務のために来ただけだ。数日滞在し、状況を整え、必要なら祓い、終われば帰る。それだけのはずだった。
けれど、山の気配とも狐の呪力とも違う、あの静かな存在だけが、なぜか心のどこかに引っかかったまま消えない。
障子の向こうで風が鳴る。
夏の終わりの気配を孕んだその音は、まだ何も始まっていないはずの時間に、ひどく曖昧な予感だけを残していた。