花酔人は明日に何を求めるか

 夕餉は、思っていたよりもずっと静かな時間になった。囲炉裏の火が小さく揺れ、赤い光が座敷の柱にゆるやかな影を落としている。障子の向こうでは、山の輪郭がゆっくりと夜へ溶けていくところだった。
 花名が盆を持って現れたとき、湯気とともに出汁の香りが広がる。煮含めた山菜はしっとりと艶を帯び、川魚は焦げ目まで丁寧に焼かれていた。華やかさはない。けれど、どこにも手の抜かれた気配がなかった。

「たいしたものは用意できなかったけれど」

 そう言って、花名は静かに膝を折る。

「すげえ。いただきます」

 五条はためらいなく箸を取った。一口運び、すぐに頷く。

「うん。うまい」
「本当?」
「ほんと。俺、嘘つかないし」

 軽い調子の言葉に、花名の表情がやわらぐ。

「そう言ってもらえると、作りがいがあるわ」

 そのやり取りを聞きながら、夏油も箸を取った。口に運ぶと、味が静かに広がる。強く主張するものはないが、舌に残る余韻が長い。

「……おいしいですね」

 気づけば、そう口にしていた。花名はほっとしたように目を細める。

「傑くんにもそう言ってもらえて、安心したわ」
「いえ……こちらこそ、こんなにもてなしていただいて」

 言葉を選びながら返すと、わずかに間が落ちる。花名は椀の中の湯気を見つめたまま、ぽつりと続けた。

「誰かに、こうしてちゃんと味わってもらうのは久しぶりなの」

 その声音は、安心したようにどこか静かにほどけている。

「村の人たちは忙しいの?」

 五条が気軽に尋ねる。花名は少しだけ考えるように視線を伏せ、それから柔らかく笑った。

「忙しい、というより……どう接したらいいか分からなくなるみたい」

 それ以上は続けなかった。巫女として敬われることと、親しくされることは違う。その距離は、言葉にしなくても十分に伝わっていた。夏油は視線を落としながら、その意味を受け取る。

「じゃあ今日は、俺らがちゃんと味わう日だな」

 五条があっけらかんと言う。花名の目尻が柔らかく下がる。

「そうね。ありがとう」

 その言葉には、食事以上の意味が滲んでいるように夏油には聞こえた。
 食後、茶を淹れ直してくると言って花名が立ち上がる。袖がふわりと揺れた。茶碗を受け取るとき、指先がかすかに触れる。ほんの一瞬のことなのに、なぜか意識が引き寄せられる。些細な距離のはずなのに、妙に印象に残った。
 縁側へ出ると、夜気がひやりと頬を撫でた。山はすでに闇へ沈み、虫の声だけが細く響いている。昼間とは別の顔を見せる静けさだった。

「風呂って、もう入っていいの?」

 五条が気楽に問う。

「ええ。母屋の奥に用意してあるわ。悟くんからどうぞ」
「じゃ、遠慮なく」

 軽く手を振り、五条は廊下の奥へ消えていった。板張りの床を歩く足音が遠ざかり、やがて戸の開く音が小さく響く。静けさが戻る。

「少し外を見てきます」
「お願い」

 夜の山は深く沈んでいた。帳の縁に意識を巡らせ、結界の歪みを確かめる。張りは安定している。狐の呪力は低く揺れているが、今のところ大きな兆しはない。
 風が頬を撫でる。土と草の匂いが混じる空気は、東京とはまるで違っていた。任務中であることを、忘れそうになるほどの静けさだった。
 母屋へ戻るころ、水音が止む。

「はー、さっぱりした」

 髪を拭きながら五条が戻ってくる。

「湯、熱めだな」
「大丈夫だった?」
「むしろちょうどいい」

 花名は安心したように微笑む。夏油が立ち上がる。

「では、次に私が」
「どうぞ。ゆっくりしてきて」

 湯に肩まで沈めた瞬間、身体の奥に残っていた緊張がほどけていった。木の天井へ、湯気がゆっくりと昇っていく。
 目を閉じると、自然と今日の光景が浮かんだ。鈴の音。山の気配。そして、静かに笑う花名の横顔。
 本来であれば、任務対象として距離を保つべき相手だ。それなのに、警戒心がうまく続かない。むしろ、この土地の空気と同じように、無理なく受け入れてしまっている自分がいる。理由ははっきりしない。ただ、それが不快ではなかった。
 戻ると、座敷には五条がいた。

「お、早かったな」
「長湯はしないからな」

 腰を下ろしたところで、花名が立ち上がる。

「じゃあ、私も入ってくるわ」

 やがて水音が聞こえ始める。夜気が座敷へ流れ込み、障子がかすかに鳴った。
 五条は腕を後ろにつき、天井を見上げる。

「こういう任務、嫌いじゃないな」
「観光じゃないぞ」
「分かってるって」

 軽い調子のまま、どこか満足そうだった。
 水音が止む。足音が近づき、襖が静かに開く。
 花名が戻ってきた。
 淡い色の浴衣に着替え、髪を背へ流している。薄藍の地に散る草花の文様が灯りを受けてやわらかく揺れ、動くたびに布が静かに呼吸しているように見えた。帯は落ち着いた色で結ばれ、控えめでありながら、目を引く。湯上がりの熱が残っているのか、頬にわずかに紅を差しているようだった。
 昼間とは違う。役目を離れた、一人の女性の気配。
 夏油は、視線を逸らすことを忘れた。胸の奥で、何かが静かにほどける。理由は分からない。ただ、この光景を長く見ていたいと思った。その感覚に、自分でもわずかに戸惑う。

「あ」

 五条が顔を上げる。

「花名さん、浴衣似合うな」

 花名は少し驚いたように瞬きをする。

「そう?」
「うん。昼も綺麗だったけど、今はなんか……落ち着く感じ」

 軽い口調のまま、視線だけはまっすぐだった。そして、横目で夏油を見る。

「傑もそう思うだろ?」

 突然振られ、夏油は一瞬言葉を失う。花名と視線が合う。逃げ場のない静かな目だった。胸の奥が、わずかに熱を帯びる。

「……ええ」

 短く息を整えてから続ける。

「とても、よく似合っています」

 花名は柔らかく笑った。その反応に、なぜか安堵に似たものが残る。

「花名さん、帯、少し緩んでる」

 五条が自然な手つきで整える。

「ありがとう」

 夜風が三人の間を通り抜ける。夏油は視線を外し、縁側の先へ目を向けた。山は静かだった。けれど、自分の内側だけが、わずかに落ち着かない。
 任務は始まったばかりのはずなのに――ここに来た意味が、別の形を持ちはじめている気がした。その正体を、夏油はまだ言葉にできなかった。