張り裂けそうな愛を刻む

 夜は、思っていたよりも早く訪れていた。
 祭りが終わった翌日の屋敷は、驚くほど静かだった。村の灯りも少なく、山はすでに深い闇の中へ沈んでいる。
 昼間の穏やかさとは違い、夜の空気にはどこか境界が曖昧になるような気配があった。人の気配が引いたあとにだけ現れる、土地そのものの息遣いが、静かに満ちていた。



 花名は自室で一人、座っていた。障子の向こうに、月の光が淡く滲んでいる。
 明日の朝になれば、二人は帰る。その事実を、昼間から何度も頭の中で繰り返していた。それは当然のことだった。任務は終わり、均衡は保たれ、役目は果たされたのだから。
 最初から分かっていたはずのことだった。それでも、胸の奥に残るものが、静かに形を変え続けている。
 この数日間は、まるで現実から切り離された夢のような時間のようだった。誰かと食事をして、笑い、同じ景色を見て、夜に言葉を交わす。巫女としてではなく、ただ一人の人間として扱われる時間。
 それが、終わる。
 指先が、わずかに震えた。花名はゆっくりと息を吐き、立ち上がる。窓を開けると、夜気が静かに流れ込んできた。
 山は穏やかだった。狐の気配も沈み、均衡は保たれている。守られている。けれど、それは永遠ではない。いずれまた均衡は揺らぐ。人は山へ入り続け、想念は積もり、役目は繰り返される。
 自分はここに残る。それもまた、最初から決まっていることだった。
 だからこそ、思う。このまま何も残さず、終わってしまっていいのだろうか。
 花名は目を閉じる。思い浮かぶのは、月明かりの縁側で見た横顔だった。触れても怯えず、哀れまず、ただ隣に座っていてくれた人。理解しようとする視線。静かで、無理に踏み込まない声。役目ではなく、自分という存在を見てくれた人。
 胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。それは一時の感情ではなく、静かに積み重なってきたものの延長にあるように感じられた。名前を与えれば簡単なのかもしれない。けれど、いま言葉にしてしまうのは違う気がした。まだ確かめきれていないはずなのに、もう誤魔化せないところまで来ている。
 ただ一つ、はっきりしていることがある。この人を、忘れたくない。そして――できるなら、忘れられないままでいたいと思っている自分がいる。
 花名は目を開く。迷いは、もうなかった。



 廊下へ出ると、夜の屋敷はすでに眠りについている。足音が畳に吸い込まれ、世界が小さく閉じていく。灯りの残る部屋の前で、足が止まる。
 一度だけ、呼吸を整える。それから、静かに戸を叩いた。

「……傑くん。起きてる?」

 内側で、わずかに気配が動く。戸が開く。夏油が現れる。その表情には、わずかな驚きが浮かんでいた。

「花名さん?」

 言葉を探す視線。その一瞬で、決意が揺らぎそうになる。けれど、花名は微笑んだ。逃げないように。

「少し、話してもいい?」

 夏油はわずかに間を置き、それから静かに頷いた。道を開ける。部屋へ入ると、夜の静けさが一層濃くなる。
 外では風が木々を揺らし、その音だけがかすかに届いていた。しばらく、言葉が出なかった。何をどう言えばいいのか分からないまま、花名は座る。
 夏油が向かいに腰を下ろした。

「……何かありましたか」

 穏やかな声だった。その変わらなさが、かえって背中を押した。
 花名はゆっくりと顔を上げる。月明かりが差し込み、影が静かに揺れている。

「ねえ、傑くん」

 わずかな間。心臓の音だけが、やけに大きく響く。

「……思い出が、欲しいの」

 花名の言葉が落ちたあと、部屋の空気がわずかに変わった。



 夏油は、すぐには返事をしなかった。意味を取り違えることはない。理解してしまったからこそ、軽く答えることができなかった。
 花名は視線を逸らさない。揺れているのに、逃げない目だった。夏油はゆっくりと息を吐く。

「……それは」

 声がわずかに低くなる。

「私でなくてもいいのではありませんか」

 拒絶ではなかった。確認だった。花名は小さく首を振る。

「だめなの」

 迷いのない声だった。その一言で、言葉の逃げ道が消える。

「明日になれば、全部終わるでしょう」

 静かな声で続ける。

「また、いつもの時間に戻るの。山も、役目も、何も変わらない」

 花名は膝の上で白い指を組む。

「だから……何もなかったみたいに終わるのが、少しだけ怖いの」

 夏油は目を伏せる。その感覚を、理解してしまう。それは衝動ではなかった。寂しさでもない。選び取ろうとしている、確かな意思だった。

「……花名さん」

 名前を呼ぶと、彼女はわずかに微笑む。

「困らせてるわね」
「……そうですね」

 否定しなかった。少しの沈黙。夏油は視線を上げる。

「あなたは、この土地を離れられない」
「ええ」
「縛りがある」
「あるわ」
「……私は、明日帰ります」

 当たり前の事実を並べる。まるで、自分自身へ言い聞かせるように。花名は頷いた。

「わかってる」

 そして、静かに続ける。

「だから、今なの」

 その言葉が、最後の均衡を崩した。夏油は立ち上がる。距離を取るためだった。数歩、歩く。だが、落ち着かない。
 何を躊躇っているのかは、はっきり分かっていた。任務中の関係。年齢差。立場。すべてが理由になる。
 ――それでも。
 振り返る。花名は動かずに座っていた。引き止めもせず、それ以上求めもしない。ただ、こちらに選択を委ねている。その在り方が、決定的だった。

「……後悔しませんか」

 低く問う。花名は少し考えてから、答えた。

「きっと、するわ」

 予想外の言葉だった。夏油がわずかに目を見開く。花名は柔らかく笑う。

「でも、何もしなかった後悔よりは軽いと思うの」

 沈黙が落ちる。その言葉には、逃げ場がなかった。
 夏油は、ゆっくりと息を吸う。理屈では止められる。だが、目の前の人を理解してしまった以上、それはただの拒絶になる。それだけは、選びたくなかった。
 静かに歩み寄る。花名の前で止まる。それまでになく、意図を持って近づいた距離だった。月明かりが、影を揺らす。

「……あなたの孤独が」

 言葉が途中で止まる。一度、目を閉じる。それから、言い直す。

「……私で、少しでも和らぐなら」

 花名の呼吸が、わずかに浅くなる。
 夏油はゆっくりと手を伸ばす。触れる直前で、ほんの一瞬だけ止まる。最後の理性だった。次の瞬間、そっと頬へ触れた。花名は目を閉じる。そのまま花名は逃げなかった。その静かな肯定に、迷いが消える。
 距離が、ゆっくりと縮まっていく。言葉はもう、必要なかった。
 ――月明かりが、障子越しに揺れていた。