淡い光の欠片を掬って
朝の光は、いつもより静かだった。祭りの翌日の山は、深く息を吐き終えたあとのように落ち着いている。
張りつめていたものはすでにほどけ、空気はやわらかく、どこにも引っかかりがない。鳥の声もどこか穏やかで、響き方まで違って聞こえる。屋敷の庭に落ちる陽射しは淡く、昨日まで漂っていた緊張の名残を、時間をかけてゆっくりと溶かしていった。
夏油が縁側へ出ると、すでに花名が庭に立っていた。洗い立ての髪を背に流し、朝露を含んだ草を眺めている。巫女としての装束でもなく、舞の余韻もまとっていない。ただそこに立っている、一人の人間としての静かな姿だった。その自然さが、かえって昨夜の光景を遠く感じさせる。
「早いですね」
声をかけると、花名が振り向いた。
「あら、傑くん。おはよう」
いつもと変わらない微笑みだった。けれど、その奥にある緊張は、もうどこにも残っていない。
「山、落ち着いていますね」
「ええ。久しぶりに、こんなに静か」
花名は空を見上げる。
「怒ってないみたい」
狐のことを指しているのだと、説明されなくても分かった。昨日まで確かにそこにあった気配が、今はただ静かに遠ざかっている。
そこへ、廊下の奥から足音が近づく。
「おはよー」
五条が欠伸をしながら現れた。
「いやー、めっちゃ寝た。任務終わった感すごい」
縁側へどさりと腰を下ろし、背を伸ばす。
「もう俺らやることなくない?」
「最低限の確認は残っているだろう」
夏油が苦笑しながら言うと、五条は肩をすくめた。
「まあね。でも平和じゃん。珍しく」
その言葉に、花名が小さく笑う。三人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。昨日までとは違う空気だった。緊張が消えた代わりに、言葉にしづらい何かが、静かに漂っている。それは安らぎにも似ていて、同時に終わりの気配でもあった。
昼前、結界の最終確認を兼ねて山へ入ることになった。道は昨日よりも明るく見えた。
木漏れ日が増え、風も軽く、足元の土さえ柔らかく感じられる。同じ場所を歩いているはずなのに、まるで違う山のようだった。
花名が先を歩きながら、時折立ち止まっては木々に触れる。その仕草は確認というより、挨拶に近かった。
「ここ、春になると花が咲くの」
そう言って振り返る顔は、どこか楽しそうだった。
「案内するの、好きなんですか」
夏油が尋ねる。花名は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「ええ。本当はね」
言葉を続けかけて、わずかに視線が揺れる。それ以上は言わず、代わりに小さく笑った。
「……ずっとこうしていられたらいいのに」
何気ない調子で言われた言葉だった。それでも、胸の奥に残る。五条は少し前を歩きながら、振り返らないまま言う。
「花名さん、地元ガイド向いてるんじゃない?」
「そうかしら」
「うん。説明うまいし」
軽い会話が続く。それなのに、時間の流れだけがどこか緩やかだった。
夏油は歩きながら、奇妙な感覚を覚えていた。この時間が特別なものだと、はっきり理解してしまっている。そして、それが長くは続かないことも。
帰り道、花名は少しだけ口数が減った。疲れているわけではない。むしろ、何かを言いかけては飲み込むような沈黙が増えていた。
屋敷が見えてきたところで、花名がふと立ち止まる。振り返る。
「……ねえ」
「はい」
「明日、出発なのよね」
確認するような言い方だった。五条が軽く答える。
「うん。朝には発つ予定」
「そう」
花名は頷いた。それ以上の言葉は続かない。寂しいとも、残念とも言わない。けれど、そのあと空を見上げる時間が、ほんの少しだけ長かった。
夏油は、その横顔から目を離せなかった。言葉にする理由はない。任務は終わり、帰るのが当然だ。それでも、胸の奥に静かに沈んでいく感情がある。
山の風が吹き抜ける。花名の髪がわずかに揺れる。その一瞬の光景を、なぜか強く記憶しておきたいと思った。理由を考える必要はなかった。
三人は再び歩き出す。屋敷までの道は短いはずなのに、妙に長く感じられる。
そして夏油は、ようやく理解する。この時間が終わることを、望んでいない自分に。それはもう曖昧な感情ではなかった。名前を与えなくても、十分に明確だった。
それでも、何も言わないまま歩き続ける。その選択だけが、今は自然に思えた。