破られない約束を胸に
山の朝は静かに始まった。
夜の湿り気を残した空気が庭を満たし、薄い霧が低く流れている。
遠くで鳥の声が響き、屋敷の軒先から落ちる露が小さな音を立てた。
目を覚ました瞬間、ここがどこなのか一拍遅れて思い出す。
任務は終わっている。
狐の気配は穏やかで、山全体の呪力も落ち着いていた。
帳と結界の調整は昨夜のうちに済ませてあり、報告として残すべき内容もすでに整理できている。
やるべきことは、もう残っていない。
それでも、すぐに起き上がる気にはなれなかった。
障子越しの光をしばらく眺めてから、夏油は静かに身支度を整え、部屋を出た。
廊下には朝の冷たい空気が流れている。
曲がり角を折れたところで、向こうから歩いてきた五条と鉢合わせた。
「お、起きてた」
軽い声だった。
髪はすでに整えられ、制服もきちんと着ている。
どうやら先に準備を終えていたらしい。
「悟こそ早いね」
「ここだと目覚めいいんだよな」
五条は肩を回しながら笑った。
「静かすぎてさ。変な夢も見ないし」
そう言ってから、ふと階下へ視線を向ける。
「……もう朝ごはんできてるっぽい」
微かに味噌と出汁の匂いが漂っていた。
二人は並んで階段を下りる。
足音が木の床に柔らかく吸い込まれていった。
食卓は、これまでの朝と変わらない様子で整えられていた。
炊きたての白米、湯気の立つ味噌汁、焼き魚、小鉢に盛られた山菜。
花名が作る食事は、派手ではないが、いつもどれも丁寧だ。
花名が振り返る。
「おはよう。よく眠れた?」
穏やかな声だった。
昨夜の気配はどこにも見せず、いつもと同じ距離で微笑んでいる。
「めちゃくちゃ」
五条が即答する。
「ここ来てからずっと寝起きいいんだよな」
「山の空気が合ったのかもしれないわね」
「たぶんそれ」
湯呑みを受け取りながら、五条は素直に頷いた。
夏油も席につく。
何度も囲んだはずの食卓だったが、今日だけ少し違って見えた。
同じ配置。
同じ静けさ。
それなのに、この時間が繰り返されないものだと分かっているせいで、すべてがわずかに遠く感じられる。
食事は穏やかに進んだ。
任務の話はほとんど出なかった。
五条が高専のどうでもいい話を持ち出し、花名が笑い、夏油が時折相槌を打つ。
それだけの時間だった。
それがかえって、この滞在の終わりを静かに告げていた。
やがて食器が下げられ、出発の準備が整う。
三人は門の前に立った。
朝の光が山肌を照らし、空気は昨夜より軽くなっている。
守られている、と分かる静けさだった。
「じゃ、世話になりました」
五条が手を振る。
いつも通りの調子だった。
「こちらこそ」
花名も同じように微笑む。
特別な別れにはしないという意思が、互いの態度に表れていた。
五条が先に歩き出す。
数歩進んでから振り返りもせず手をひらひら振った。
夏油はその場に少しだけ残った。
言うべきことは、本来ないはずだった。
任務は終わった。
関係も、ここで一区切りのはずだった。
それでも、足が動かなかった。
「……花名さん」
名前を呼ぶ。
花名が静かに顔を上げた。
期待も問いもない、穏やかな視線だった。
夏油は一瞬だけ言葉を探し、それから口を開く。
「任務でなくても、来てはいけない決まりはありませんよね」
冗談のようにも聞こえる言い方だった。
だが視線は逸らさない。
花名はわずかに目を見開き、それから柔らかく笑った。
「ええ」
短く答える。
少しだけ間を置いて続けた。
「山は、いつもここにあるわ」
約束ではない。
待つとも言わない。
ただ、変わらないものを示すような言葉だった。
夏油は小さく頷く。
それ以上は何も言わず、背を向けた。
門を離れるにつれ、屋敷の気配が遠ざかっていく。
振り返らなかった。
振り返れば、この時間を置いていけなくなる気がしたからだ。
山道を下りながら、胸の奥に静かな感覚が残る。
終わったはずの任務。
離れたはずの場所。
それでも、完全には切り離されていない何かが確かに残っていた。
その感覚に、まだ名前はない。
ただ――
いつか再びこの道を歩く可能性だけが、理由もなく心の奥に留まり続けていた。