縮まらない距離と焦燥

 舞が終わったあとも、しばらく誰も大きな声を出さなかった。張り詰めていた空気が、時間をかけてゆっくりとほどけていく。
 ようやく人々が息を取り戻し、境内の端では子どもたちが控えめに笑い始め、大人たちも安堵を確かめるように言葉を交わし始めていた。
 灯籠の明かりが、一つ、また一つと輪郭を強めていく。夜祭が、静かに始まっていた。



 夏油は人の流れから少し離れた場所に立っていた。
 任務としては成功だった。山の気配は穏やかで、暴走の兆候もない。帳の内側を満たしていた緊張も、いまは静かに沈んでいる。
 それでも、胸の奥だけが落ち着かなかった。理由を探ろうとすれば、すぐに辿り着いてしまうことを、分かっていたからだ。
 視線は無意識に花名を探していた。少し離れた場所で、村人に声をかけられている姿が見える。装束のままではなく、簡素な着物に着替えていた。先ほどまでの神聖な気配は薄れ、どこにでもいる一人の女性のように見える。
 その変化に、なぜか安堵した。舞の中にいた存在が、確かにこちら側へ戻ってきたと感じたからだ。

「何、ぼーっとしてんの」

 隣に五条が立つ。手にはいつの間にか串焼きがあり、湯気がわずかに夜気へ溶けている。

「任務は問題なさそうだな」
「ああ」

 五条は一口かじりながら、どこか楽しそうに笑った。

「祭りってさ、終わったあとが一番静かなんだよな」

 軽く言っただけのようで、その言葉は妙に核心を突いていた。夏油は何も返さなかった。その意味を、すでに理解してしまっていたからだ。
 視線の先で、花名がこちらに気づく。小さく会釈をしてから、わずかに迷うような間を置き、それでも足を向けてくる。その歩みは、舞のときとは違い、ごく自然な速さだった。

「二人とも、疲れていない?」

 声は普段どおりだったが、どこか力が抜けている。張りつめていたものが、ようやくほどけたあとの声音だった。

「平気」

五条が即答する。

「むしろ俺ら何もしてないし」

 花名が笑う。その笑顔は、舞の最中に見せたものとは違い、肩の力が抜けていた。

「でも、本当に助かったわ。山がこんなに静かなの、久しぶり」

 その言葉のあとに、わずかな沈黙が落ちる。花名の視線が、夏油と五条を順に辿る。

「……ありがとう、二人とも」

 まっすぐな声だった。夏油は、ほんのわずかに視線を逸らす。

「あなたが舞ったからです」
「それでもよ」

 花名はゆるく首を振る。

「一人だったら、あそこまで落ち着いていられなかったと思う」

 灯籠の光が揺れる。遠くで太鼓が鳴り、笑い声が風に乗って届く。それでも三人のいる場所だけ、音が一段遠く感じられた。
 五条が、わずかに間を置いてから伸びをする。

「俺、ちょっと向こう見てくるわ」

 その言い方はあまりに自然で、意図を感じさせないほどだった。軽く手を振り、人混みの方へと消えていく。
 残された沈黙は、思ったよりも穏やかだった。気まずさはない。むしろ、最初からそうであったかのように、自然にそこへ落ち着いた。
 花名が、小さく息を吐く。

「祭りって、不思議ね」
「何がですか」
「終わるって分かっているのに、始まると少し安心するの」

 灯りを見つめながら続ける。

「この時間が、続く気がしてしまうからかしら」

 夏油も同じ方向を見る。提灯の光が揺れ、人の影が重なっては離れていく。その光景はどこか現実感が薄く、今この場所だけが切り取られているように感じられた。

「続かないと分かっているから、でしょう」

 花名が微笑む。

「傑くんらしい答え」

 その言い方には、どこか柔らかな親しみが混じっていた。
 少し風が強く吹く。灯りが揺れ、二人の影が足元で重なる。花名は、その揺れを見つめながら、静かに言った。

「でもね、今年は少し違うの」

 夏油が視線を向ける。

「終わるのが、前より寂しい気がする」

 その言葉に、すぐには返せなかった。同じ感覚を、自分も抱いていると理解してしまったからだ。
 遠くで、花火の小さな音が弾ける。光は木々に遮られ、空そのものは見えない。それでも一瞬、夜の色がわずかに明るくなる。花名が、その方向を見て笑った。

「明日になったら、またいつも通りね」

 何気ない言葉だった。それなのに、胸の奥がわずかに痛む。
 『いつも通り』。それが、自分たちがここを去る未来を含んでいると、理解してしまったからだった。
 夏油は何も言わなかった。ただ、灯りの下に立つ花名を見つめていた。
 舞の中で見た姿とは違う、けれど確かに同じ人間であるその存在を、視線でなぞるように確かめながら、この時間が終わることを、改めて惜しいと思う。言葉にすれば、きっと何かが変わる。だから何も言わないまま、その場に留まることを選んだ。
 夜祭の音は遠く続いていた。
 それが途切れることなく続いていることが、かえって終わりの気配を際立たせているように感じられた。