新月に祈りはしない

 奉納の舞の日、山は朝から妙に静かだった。
 祭の日特有の忙しさは確かにあった。村人たちは行き交い、灯籠を並べ、白布を結び直している。それでも声は自然と抑えられ、誰もが必要以上に騒がない。まるで山そのものが耳を澄ませているような、どこか張りつめた空気が広がっていた。
 その静けさは不安とは違う。むしろ、何かを迎え入れる直前の、抗えない必然のような気配だった。


 夕刻、社前の広場には人が集まり始めていた。石段の両脇に灯された明かりが、ゆっくりと夜を引き寄せていく。空にはまだわずかに青が残っているが、山の影はすでに深く沈んでいた。
 夏油と五条は後方に立っていた。結界は問題なく機能している。周囲の呪力の流れも安定している。任務として見れば、ここまでは想定どおりだった。
 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。理由を辿ろうとして、途中で思考を止める。言葉にした瞬間、それが形を持ってしまう気がしたからだ。
 社の奥で、鈴が鳴った。澄み切った音が空気を震わせる。広場にあったざわめきが、波が引くように消えていく。
 視線が一斉に向けられる。
 花名が現れた。
 白と淡い朱を重ねた装束が、夕暮れの光を受けて静かに揺れている。長い袖が風を含み、歩くたびに水面のような軌跡を残した。
 見慣れているはずの姿だった。それなのに、視線が離れない。歩みはゆるやかでありながら、まったく迷いがない。この場に立つことを、ずっと前から知っていた人間の動きだった。
 花名が中央へ進み、深く一礼する。鈴が鳴る。
 舞が始まった。
 足が地を踏むたび、空気がわずかに揺れる。呪力が動いていた。それは強く押さえ込む力ではない。流れに触れ、乱れをほどき、行き場を失ったものを静かな場所へ導いていくような働きだった。
 袖が翻る。その軌跡をなぞるように、山のざわめきがゆっくりと沈んでいく。
 夏油は理解する。これは祓いではない。対話だった。敵対でも、支配でもない。そこに在るものを否定せず、受け入れながら均衡を取り戻す行為。それは呪術でありながら、同時に祈りにも近いもののように思えた。
 鈴の音が重なる。その瞬間、山の奥から強い気配が立ち上がった。
 狐。
 姿は見えない。だが確かに、意識がこちらへ向けられている。
 空気がわずかに重くなる。村人の何人かが息を呑む気配が伝わる。それでも花名の動きは揺るがなかった。
 一歩、また一歩と、舞は次第に、人の所作から離れていく。
 灯籠の光の中で輪郭が曖昧になり、現実の重さを失っていくようだった。触れられる距離にいるはずなのに、どこか遠い場所に立っている。
 手を伸ばしてはいけない存在のように見えた。胸の奥が締めつけられる。術式の危険性でも、任務の緊張でもない。
 理由は分かっている。だが思考はそこから先へ進まなかった。進めてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がした。
 それでも、視線を外すことができない。
 花名が最後の一歩を踏む。鈴の音が、夜へ溶けていく。
 同時に、山を覆っていた重さがほどけた。風が吹き抜ける。木々が揺れ、滞っていた気配が散っていく。絡みついていたものがほどけ、流れが本来の形へ戻っていくのが分かる。
 均衡が戻った。広場に安堵の息が広がる。その中で、夏油だけが動けなかった。
 舞を終えた花名が顔を上げる。一瞬、視線が重なる。そこにあったのは巫女の顔ではなかった。ただ息を整える、一人の女性の表情だった。
 胸の奥で何かが静かに沈む。逃げ場のない感覚だった。

「……傑」

隣で五条が呟く。

「何」

 視線を外さないまま返す。五条が小さく笑った。

「だいぶ持ってかれてんじゃん」

 軽い口調だった。けれど、その言葉は妙に的確だった。否定する気にはならなかった。言葉にする必要もないと分かっていたからだ。
 灯籠の光の中で立つ花名を見つめながら、夏油はゆっくりと呼吸を整える。
 任務は順調に進んでいる。山も安定した。それでも、胸の奥だけが静まらない。
 この人を、ここに一人で立たせ続ける光景を、もう当たり前のものとして見ていられない。
 理由を考えるのはやめた。答えはすでに、自分の中に沈んでいると分かっていたからだった。
 夜風が吹き抜ける。鈴が、もう一度だけ静かに鳴った。