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 江戸、伝馬町。

 門下がいなくなった道場の床で、空虚に両腕を広げて薄い瞼を閉じる男の風貌は粗野である。
 若葉色の着流しに紺の帯と灰色の羽織が、どことない伊達の風貌だった。

 師を見送ってから早、半年が経っていた。男はいま少しの失意にいる。

 首のない恩師の冷えた身体は“安政の大獄”の幕引きだった。

吉田松陰《よしだしょういん》。

 男が師と崇め慕った、柔和の下に激情を隠す嵐のような男はもう、いない。

 感慨、いや、失意にも似た男の思考の端に、床を擦る足音が忍び込んだ。
 ゆっくりと目を開ければ曇った夕方の日差しが、男の視界を現実に引き戻す。

「高杉《たかすぎ》、」

 高杉と呼ばれたその男は、声に横目で視線を寄越し、「よう」と人物に挨拶を交わした。

 見知った、故郷の|萩《はぎ》によくいるような顔つきの、太眉で難いの良い同士が、自分に酒を見せ立っていた。
 その来訪者の姿を認識すれば高杉は、身体を起こして袖から煙管を出して吸う。

「ご苦労さん」

 同士に対し、高杉は純に男を労う。同士はその、高杉の薄笑いのような表情に、疲労が顔に出ていたかと表情を緩める。

「ま、座れよ」
「そうだな」

 促された同士は高杉の隣に座り、恐らくは他所、しかも言うなれば“お偉いさん”に会ってきたのだろう新調の袴には構わず、だらしなく胡座をかいた。

「…少し窶れたな高杉」

 酒を翳す同士を見ては、
まどろっこしい気遣いだなと、高杉は素直ではなく「久坂《くさか》、」と、同士に先を促した。

 了承と得て、高杉に久坂と呼ばれた男は伏せ目、「土佐の坂本という男を知ってるか?」と高杉に尋ねる。

「あぁ、坂本くん?
 五月塾で会ったきりだがどうした」
「…どうにも京へ寄り道し、あそことは袂を分かれたそうだ」
「坂本くんが何か動いているのか」
「あぁ、まぁ。
 どうにも京の攘夷派やくざと手を組んだようでな」

 …それは確かに、興味深いが。

「はぁ、同じ場で少々学んだ男がやくざもんになっちまった、それだけじゃないのか?」
「それならまだいいが…。
 坂本は勝海舟《かつかいしゅう》の弟子とな。先程勝海舟と話してきたがどうにも、高杉。
 君に近々帰還命令が下るそうだぞ」

 それは。
 恩師、吉田松陰が亡骸を思い出す。江戸の海で嘆いたあの、天地がひっくり返った地獄のような日を。

「…勝海舟、」

勝海舟。
 幕府の末端がどうしたという。

 勝海舟とは、佐久間象山が江戸で開いたあの被れた塾で出会った。
 その佐久間象山を信州に引っ込ませたきり動けずにいるあの末端幕臣と恩師と、自分は過去に繋がりはある。

「どうやら勝海舟はあの塾での弁を語り、海軍伝授の役割に立つようだ」
「…ふっ、」

 「く、ははっ、」と、高杉が飄々と笑う。
 しかしながらどこか、久坂が古き仲から知り得る、高杉の瞳孔に潜めた狂気の瞳には熱意も見える気がする。

「相変わらずだな」

 そんな高杉を見て少し安堵したのも久坂には本音だ。

「そして、桂《かつら》の潜伏先が今やわからん」
「桂さん?」
「ああ。萩へ逃げたのかもしれない」
「まぁ、あれはそういう気概だろう」

 逃げの小五郎《こごろう》。
 なかなか、異名で体を表している。そんな男だ。
 しかし弱虫どころか、幕臣相手に公武合体をちらつかせる、ある意味あの、故郷へ逃げた佐久間象山に似た厄介な気質であるのは確かなのだ。

「恐らく勝海舟はあの学を、幕府で」
「馬鹿馬鹿しい」

 酒瓶を久坂から奪い取るようにしてらっぱ飲みをして返してくる高杉の表情は煌々としている。首筋に流れる焼酎が光る。

「漸く己が過ちに気付いたか、あのインチキ野郎」
「…勝海舟はその土佐の教え子の方に傾いている。海軍の訓練所を、土佐のやくざ者とやろうという手の内だろう。君にも声が掛かっている」
「はぁ、なるほどね」

 一度は吐き捨てた高杉だが、少し考えれば一気に熱意が増したように思慮深く。

「乗ってやろうか、その船」

 ふと、高杉は久坂が思うよりも楽しそうに笑った。
 その鋭い眼光は更に刃のような、冷えたきらめきで曇り行く、外の夕焼けを睨み付けていた。

「皆、頭柔らかくしようや。
 いまや神だの仏だの、そんな紛い物の幻想は要らないんだよ。
 己は鬼として歩むが賢い。学ばかりある頭でっかちな末端ですら、それにすがり歩くのさ」

 恩師を捨てる気概。
 そう来たか。
 なかなか、この男が見る未来は想像がつかないなと久坂は感心をした。

 自分も、あの幕府の変わり者には思うところがある。しかし人柄、もしやこの二人ならば、ゐれきせゑりていとのような化学反応が、起きるかもしれない。

高杉晋作《たかすぎしんさく》。

 恐らくこの伊達男は伊達でなく。
 旋風だと、同士、久坂玄瑞《くさかげんずい》はこの時すでに感じたのだった。

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