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 朝方、寺を経とうと二人が鳥居を前にしたとき、「あの、」と佐近が駆け寄ってきた。
 二人が振り向けば佐近があの、禁書紛いである佐久間象山の講義を記した書を持っていた。
 どうにも、佐近の顔は晴れゆかない。

「これ…。
お持ちください、よければ」
「え?」

 なんだろう。
 渋々、というか佐近の真意がわからぬままに朱鷺貴はそれを受け取る。曇った朝日に照る佐近の顔はやはり、晴れ行くものではなかった。

「…朱鷺貴様方は江戸の方へ、経つのですよね」
「まぁ、そうだけど」
「…私も昨日佐久間先生から、江戸の伝馬町《でんまちょう》なる、五月塾《さつきじゅく》へ行かないかと言われましたが、やはり私には寺がある故、行くことは叶わず。もしよろしければこちらをお持ちになり、お尋ねください」
「んー…」
「これは書き写した物です。江戸に行くなら必要かもしれません。
 というか、佐久間先生はおしゃいます、“教授とは世に学を広めることだ”と」
「…そうだろうけど」

 しかしまぁ、貰った物、思いを突き返すのも気が引ける。なんせ、書き写したらしいし。

 少し考えた末、朱鷺貴はふいっと、案外ぞんざいに翡翠へそれを渡した。受け取った翡翠は「ふぅ…」と溜め息を吐き、薬箱の上段、春画が入っている引き出しに入れていた。

「誰でも持ち出しはいいのか、この塾は」
「はい。公開しております」
「あぁ、そう」

 翡翠が嫌うのも少しわかる気がするな、佐久間象山。
 理屈はわかるがそれは本当に、布教と大差ないだろうと、朱鷺貴は苦笑の思いだった。

「…伝統たるやは、まぁ、日本の凝り固まった概念だが、佐近。君に言う。君はこの書を理解し得たのか」
「…まだ、」
「そうか」

 朱鷺貴は鳥居の方へ向き直り、ふと右手を翡翠に出した。了承と言わんばかりに煙管を渡した翡翠を見て、佐近はそれに釘付けになった。

 何も言わずに立ち去る二人の間に煙が登る。なかなか伊達な男だ。佐近は背中にそう感じた。

 佐近の視線は気にも止めず、煙と共に朱鷺貴は言う。

「こんな時の逢祖殺祖だな。この程度の布教は逆境だろ」
「嫌いになりました?」
「どうかな。広まりゃ大したもんだが」

 上田の方へ歩き出す。
 下諏訪《しもすわ》までは遠かった。相当歩いた。

 上田の、弟が本拠地とした城も通った。
 家紋は、文が六つ。六文銭と呼ばれるもので、なるほど、俺はもしや一瞬くらいは死にかけたのか、魘されて。

 いや、却って。

 覚えてはいないが自分はあの、狂気に満ちた男の首を取った、鉄砲頭かもしれない。夢ではわからない事情だった。

 片道通行の六文銭など、本当に坊主としては縁起が良いのか、悪いのか。俺たちは果たして京へ帰れるのだろうかと言う気持ちになった。

 武将ならば帰らぬも良しだが、俺は坊主だしなと言うのが、城の重厚な門扉で考えた。

「不思議なもんですね」

 翡翠も門扉を眺めて言った。

「でも、わかった気が致します。
 尊皇攘夷が強い風潮の象徴かもしれまへんね」
「…ん?」
「この人、要するに祖と言うものは殺さなかったわけやろ?しかし江戸に近い位置に立つこの城は、何故ここにあるか。中山道《なかせんどう》から外れてるにしても、です。
 堂々としている。彼にとって祖とは、それ程で、敵方はあっぱれと、言ったもんなのかなぁとね」

 門扉を眺めて悟るように言う翡翠の風情は格好だけは様になるが、中身を知る朱鷺貴としては胡散臭いと笑いそうになった。

 知った気になる。
 しかしそれはなるほど、時世に翻弄される今の日本人と大差ないが、皆確かに、この上田の主よりも我はない。

 仏に逢えば仏を殺せ。祖に逢えば祖を殺せ。

 今の日本人にはそれほどの度量があるだろうか。信じたものを、すがらずよがらず捨てられるか。

 柄にもなく坊主相応なことを考えた。真田左衛門佐信繁。武士とはそんな、昔から陳腐であり削ぎ落とされたものかもしれないなと、翡翠を眺めて朱鷺貴は問うてみた。

「…お前、川で幽霊拾ってないか?」
「は?」

 坊主の癖に。
 何を言うやら。

「俺はそういうのも敏感だからな」
「何、怖いんですかトキさん」
「別に、」

 ただ、見えないものは得体が知れないだけだと言いたかった朱鷺貴だが、翡翠がふいに笑い出す。

「よぅ坊さんやっとりまんなあんさん」
「うるさいわ違うから、違うからねホンマに」
「刀も抜けない幽霊も怖い。あんさんちぐはぐやねぇ…!」
「そーゆーお前だって道徳のたがが外れてんだろうが!」

 詮のなく。
 徳川幕府の始まりを背に中山道を行く。江戸はまだまだ、遠かった。

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