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それから朱鷺貴は夜までぐっすりと寝てしまった。
側にいながら翡翠は、
なんとなくこの根岸という男は胡散臭いなぁ。
そう思って薄らと起きていようと考えていたのだが、看病疲れに寝てしまった。
「精力着いたら、坊さんに言うのは気が引けるが、深谷よりは蕨《わらび》あたりの色町がいいよ!」
と、ホントに邪気なく言われたせいか、翡翠は廓時代の夢を見た。
『あんさん、傾城《けいせい》やな』
そう言った武士階級は多かった。翡翠は元々、上流な客ばかりが集う、大見世《おおみせ》、中見世《なかみせ》あたりの雑用をしていた。
『あん子はやめときなはれ。ウチの店じゃぁ“走る馬《ま》”言われてるんやで』
『走る馬?なんやそれは』
『あん子、付け馬も中郎も二階廻も、端すらもなんでもやるんやで。ヤクザ上がりのはしたない子なんよ』
そう、目の前で言われることになんの感情も沸かなくなっていた。
実際ヤクザ時代すら、殺しから金取りからなんでもやって来た。これくらいはなんてことない。
『ごゆるりと』
去ろうとする間際にその武士は、大見世を突き飛ばすように立ち上がり『所詮お前は大釜やろ』と卑下し、自分の元へ来て手を掴み、顎を上げては『上等や』と言った武士の顔は思い出さない。だが、憎悪に睨む“大釜”の、あの歪んだ顔だけは今もはっきり覚えている。
『わてはただの不寝番やさかい。 はん、お門違いですぇ』
だがその場で押し倒され、その鳩尾に咄嗟に蹴りをかましたら3日謹慎をくらい、『中郎のヤクザもんが調子に乗るなよ、』と部屋まで来たその大見世の暴力は耐えた。店の商品に怪我をさせたとなれば事は重大だ。
しかし藤嶋もまた、『 ごときの大釜は所詮客なんて下流武士だろ』と、その大見世を影で罵り、
『だがあの下流武士はいけ好かねぇな』
と、顔を皮肉に歪めて笑うのすら、無感情で藤宮に介抱される自分を考えた、16あたりの頃。
この人は、自分が中郎として、雑巾を投げられている様なんて知らなくて良いのだ。そう、思った。
足を伝ったあの武士の生温い舌の這う感触すら、知らないままだろうと。
布団を握る、まるですがるように隣で自分に突っ伏すような翡翠の重さに朱鷺貴は自分の介抱への疲労を見た気がした。
どんな夢を見て何を考えるのかは、朱鷺貴にはわからない。その見聞は恐らく、武家と寺を跨いだ自分には程遠いだろうと、軽くなった頭で考えた。
本日の、色々価値観からズレていた深谷での見聞を記そうか、そう思った矢先にもぞもぞと、布団なく動いた根岸に気付き、朱鷺貴はその不穏さに寝たフリを決め込んだ。
従者が即座にぴくっと反応し、布団を握っていたその手は緩められた。
恐らく眠りは浅かったのだろう。
翡翠としては、気配で目が覚める直前にやっと思い出したあの武士の歪んだ表情との木目は一瞬で過ぎた。
恐らく根岸が見計らい、動き出した。
そのまま静かに外へ出ていく不審さに、そっと、寝ている朱鷺貴を確認してから後をつける。
朱鷺貴としては、殺伐とした気配を殺す従者を見守らなければと、二人が出ていった背中を、少し後に追うことにした。
焼却すると言っていたあの、水仙が入った藁を持った根岸は畑の方へ向かっている。
ふとした影からいかにも、刀を下げた素浪人がふらっと姿を現す。
その素浪人に一つ、二つと会話をしてから藁を渡し、蹴っ飛ばされた根岸が見えた。
そのまま素浪人が刀を抜き、根岸の首元に当てたのが見えた。跪いた根岸は素浪人に懇願しているように見える。
「久世《くぜ》から強奪したこの水仙でどうにか、俺を鎮派に入れてくれませんか。もう激派は終わっている」
なるほど。
こいつ、天狗党“激派”の一員だったのか。
「…家茂も結局は言いなりになって“公武合体《こうぶがったい》”なんて生温いことを唱え始め、今や幕府変えるのは一橋派でしかない」
「その水仙とはなんだ」
「毒草だそうだ。家茂は身体が弱い、ニラによく似たこいつを食えば死ぬだろう。そして一橋慶喜を推せば」
「バカだなお前」
キラリと刄が根岸に向く。
驚愕の表情で見上げる根岸と、歪んだ笑いを浮かべる素浪人。よもや、根岸は死ぬかもしれない。
「いまや幕府でどうにかなると信じ込んでるのは、お前ら温室の上士《じょうし》落ちだけなんだよ、」
危ない。
「待ちぃや!」
と叫んで気を散らせる。
二人の視線が翡翠に向けられた。
「その話はどういうことですか根岸さん」
月明かりで見る翡翠の目は冷淡だった。
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