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 郭の戸は近かった。
 だが、明かり、人通りも遠ざかった廊下にごすっと、壁を叩くような打撲音がした。
 翡翠が刃傷武士野郎を壁に叩きつけたのだった。

 「この、」クソガキ、と言うも敵わず鎖骨、襟あたりにきん、と音が鳴り恐る恐るその武士は横目で見る。苦無だ。なかなかお目にかかったこともないが苦無がぶっ刺さって着物が壁に固定されたらしい。

 待てよ俺がなにしたって言うんだと若者に再び視線を移そうとすれば股間ががっつり包まれるよう、しかし力強く圧迫され「ひぃ、」と情けない声がした。

「女に斬りかかろうなど下衆な話でんなぁ、お侍さん」

 股間がもみもみされているが優しくはない。なによりクソガキの瞳孔開いたような目が「こっちとら命握ってんだよ」と言わんばかりで狂気じみている。

 蛇に睨まれた蛙とはこの事だった。

「その辺にしておいたらいかがですか?」

 依然傍観を続けていた若い衆、栄太郎が呆れたように言った。
 それには嘲笑うような思いがして翡翠は睨むように振り返る。だが、栄太郎の態度は変わらない。

 むしろ。
 栄太郎がガン飛ばすような瞳で見る先は武士だった。先ほどまでのどうしょうもねぇ使えない若い衆とは訳が違う。

 この男の目は、どうやら遊郭の下男には向いていない。一瞬で同族だと翡翠は感じて少し、笑ってしまった。

「これはあんさんの仕事ちゃいまっか若い衆」
「手狭でしてな。助かりますわ」
「さて、若い衆としてはこの不能なお侍さんに一分返してやるのが筋やないですか」
「…何を言いますか下らない。
 京者はそういうまどろっこしいのが、嫌いですね」

 ふと、変われと言わんばかりにその若い衆は嘲笑のまま武士へ寄ろうとする。
 牛がどこまでやるものかと翡翠が武士から手を離し開けてやれば「あんた、」と、その壁に手をつき密やかな声で言い捨てた。

「確かぁ、一橋《ひとつばし》、会津《あいづ》の犬畜生でしたよね望月さん」

 低くくぐもった声だった。
 喋り方がどうにも、

「は、…っなんだお前」
「いやはやまだ一分は返せませんね。一体何を掴んでいるのか、現在の若者としては少々気になる」

 ヤクザの気質、いや、殺し屋のそれに近くなる。
 いままでのはなんだったんだ。

「お前まさか」
「いいやぁ、タマ潰されずに済んだんだ、安いもんでしょ一分の話など。試しに男掛けたその話とやらを聞く権利、私にもあるかと思いまして。
 あんた、何をあの小娘に握られたんですか?誰に何を、ウチのお得意さんであるのは間違いないでしょうが」
「…何者だおま」
「おっとぉ、」

 若い衆はそれから翡翠の苦無を抜きまた、今度は首の皮にかするぐらいの位置に突き立てる。

「一分で首の皮繋がってるのは安いと思いませんか、望月さん」
「あんさん…」

 これはもしや担がされたかもしれない。

「何を企んでます?」
「何、とは?
 あまりに不能だなんだとおっしゃるので仕事をしているまでですが」
「…あの振袖から情報をかっぱらっていたのはあんさんか番頭か言うことで間違い無いですか?
 なんやおかしいとは思いましたよ。遣手《やりて》も居ずして武士だからと吹っ掛けてきてるんは若い衆のわりに大業やとね」
「なに、」
「はは、郭者には負けますね。だがあんたはどうにも不寝番《ねずばん》、掛廻《かけまわり》、遣手までの話運びときた。女のような優男とあれば陰間、若衆といった手合いでしょうか」
「…走る馬と陰口叩かれる端くれやけどね」
「確かに見込みはなさそうだ。
 あんた、殺し屋のような気概があるねぇ」

 栄太郎という若い衆がそう喧嘩を吹っ掛けてくる。
 しかし、武士は置いといて翡翠に対峙した。

 蛇や獣ほどに冴えた眼と冷たい気迫は翡翠の予想外だった。
 この男の滲み出そうな、体臭のようなものを押し隠す懐は一体どこにあったのかと少し、出遅れて腿の苦無は遠い、懐刀かと手に掛ければ「でもぉ、」ナメた口調だが完璧にそれを取られてしまう。

 からんと、鞘の落ちる音がした。

 蛇を狩ろうというような瞳孔を開いた瞳で、その刀身を舐め回すかの如く視姦する色にも、気迫にも恐怖すら覚えた。

 喰われる。

「この刃ですら行き場がないなら鉛だな、」

 ふらっと、また栄太郎は望月へ向くがこれに少し気の抜けるも。
 がん、と今度は苦無のない右肩あたりに突き立て、それを下へ滑らせ、肩に触れるあたりで武士の情けない「ひぇぇ」が小さく響く。

「聞きそびれたな、長州桂小五郎殿の居場所はどこだ」
「か、」
「桂小五郎だよ松下村塾《しょうかそんじゅく》の。動き回ってるなら知ってるんだろ、なぁ?何のために会合してんだ?世継ぎの話か?」
「い、いや、」
「掴んでないならそりゃ結構」

 打撃音がする。

 ぐへっ、と望月が頭を垂れた所で小刀を壁から抜き翡翠に再び振り返る男は笑っていた。

 殺されるかも知れないと苦無を抜こうとしたがこの男の手癖は早い。
 「そうさなぁ、」と、首元に刃を当てらたそこには自分の焦った表情が映った。

 引くも危うい。

 苦無を取ろうにも「まぁまぁ、」と、腿を這う指で確実に翡翠の反抗は途切れた。

「良い顔してんなぁ、殺し屋。
 三日三晩仲良くしようじゃないか。なぁに簡単だ。馬のように走れば良いんだよ」
「断る」
「三日でいいんだよ、三日で。居ないとわかればそれでいい」

 …なんだそれは。

「油なんぞ差さんでいい。火消しをやってくださいなぁ」

 それだけ言って小刀はあっさりと、返される。

「あ、そうそう。用心棒、名前を聞いていませんでしたね。私は吉田栄太郎と申しますが」
「…は?」
「やだなぁ、仲良くしましょうって。取って喰われる蛙じゃないんだから」

 空気が一変した。
 張り詰めたそれは緩まる。息を吸うのを思い出し、だが蛙とは些か侵害だ。苦無に這っていた手をパシッと払い「水鶏《くいな》、」と吐くように答えた。

「くいな、」
「…藤宮」

 この名を口にするのも屈辱だ。歯を噛む思いだった。

「よろしく」

 心中計り知れない。
 大火事のような、この男の。あの兄に似て酷く不愉快だと、翡翠は答えずに宛もなく、一度夜風に当たろうと外に出た。

 歴史を早めるのは、どちらか。

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