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 紫煙は登り霧散する。

 いつもと違うシチュエーション。ベッドに座る俺の心に、きらびやかな紅い壁とシャンデリアが被爆するようだと倦怠感を抱いた。

「ねぇ、センセ」

 背後でもぞもぞと布団にくるまった、長い黒髪の女が、微睡みのようににやっと笑う。

 幼虫みたいだ。

 伸ばされる腕は細い。また、腹辺りに絡み付くその蔦は、酷く嫌いな現象だった。

「センセ、画展観に行くから。せめて名前を教えてよ」

 名前。
 そもそも俺はこの女の名前すら知らないなと、ぼんやりと冷えた頭で考える。

 下腹部の倦怠感、まさしく賢者タイムを嘲笑う自分は笑いを噛み殺したくて煙を吐く。
 「ねぇ、ねぇ」と、そんな無意識に滑り込む砂糖菓子のような、水分が奪われそうな甘ったるい声に「霧島きりしま朔夜さくや」と、思いついた名前を溜め息と共に女へ吐き出した。

 軽く俺が振り返れば女は乱れた髪と、いじらしい口元で笑う。肘を付いた細い腕と、露になる形がよい乳房に、心底うんざりする思い。

「どう?良い絵が描けるでしょ?」

 答えずにタバコを捨てれば背中に抱きついてきた女の温もりは少し冷めている。

 意欲が酷く減退しそうだが、こちらが何もしなくても項を熱い吐息と生温い唇が蔦を這うように襲う。耳元の濡れた声が「ねぇ、」と鼓膜にまで絡み付く。

 そう言えばこの後予定が入ってたな。

 思い出して立ち上がれば「えっ、」と、漸く現実を見た女の短い声が聞こえた。
 シーツと布団に挟まれた夢のような、女の現実的で驚愕な哀愁、
よりもショックが見える、俺を蔑む涙の網膜は剥離しそうで。

「ありがとう。画展で会えたら良いね」

 脱ぎ捨ててあったレースカーテンのような白いスカートと、丸首のブラウスを拾い集めてベットに置いてやり、一人で風呂場に向かう。

 風呂場を見て、
こんな不衛生に暗い照明と湿った空気に辟易した。素直に、畳んでおいた青いシャツと黒いパンツを身につける。

 ドアの入り口に立て掛けておいた画材を眺めながら灰色のチェスターを着ていれば、まだ服も着ない彼女がこちらを覗いて言う、「帰るの?」と。

「画展の準備があるから」

 部屋のドアにいた女の横をすり抜け、また部屋に戻っては、ぞんざいに床に捨てられたようなスケッチブックを拾った。
 あぁそうだったと、ソファに置いたリュックから女に封筒を渡した。

 多分3万くらいは入れてある。まるで援助交際だな、と不埒に自分を自嘲すれば、ドアを閉める音に紛れる「クソ野郎っ」。

 朝陽がまだ浅い、夜のない朝のホテルを出る。きらびやかが廃れた街並みを黙々と、下ばかり見て歩く。
 徐々に姦しくも、どこか排他的な男女のやり取りをちらほら見掛けて、熱く口交わる30代くらいが最後。朝陽に顔を背けてコンクリートを眺めて駅まで向かう。
 途中にあった「霧島朔夜」のビル1階の画展会場に溜め息が出てまた歩き出す。

 中央線が止まったホームはざわめきがあり、仕方なく30分くらいは椅子に座ってぼんやりと電車を待った。帰ったら風呂に入って新しいアシスタントを待とう。そんなことを考える。

 漸く来た電車は浮遊物ばかりに窓を湿らせ、俺は一本見送った。駅員が掃除し損ねたのだろう、黄色と銀の車体に赤い絵の具をぶっかけたようなわずかな筆先の跡に生死を見た気がしてその光景をスケッチする。次の電車はそれを描き終わる頃にやってきた。

 不埒な薄い空気に乗り込めば、まわりは大道具を持つ俺を迷惑そうに見るのだが、これは慣れたことだった。

 2駅も行けば学生がいなくなる。うんざりした顔の学生たちは皆日常。人が減った頃に俺は昨日ケータイに撮った女の写真の確認作業をした。あの服を着た姿も、一糸纏わぬ姿も交互に眺め、これは没だと画像を削除。

 一枚だけ、椅子に座って俯き髪を耳に掛ける姿は取っておいた。

 正直、これくらいに清潔感が欲しかった。

 抑揚のない日常の物足りなさに、最寄り駅で降りて家に向かう。ボロアパートの一番端、日の光が一番当たる二階建ての部屋。
 ドアを開ければ漂う埃臭さが懐かしく感じるほどに、昨夜の行為は排泄的だった。まだ一日は始まったばかり。

 今度は募集要項に、「清潔感がある方」と書き加えようか。だがまぁ、恐らくはそれなりに濃厚な時は過ごした。

 家の二階は画廊として使っている。キャンバスと画材しかない。ただっ広いその空間に昨日買ってきた画材を置いて、また階段を降りて一階の風呂場に行く。

 風呂で全てを洗い流したら、本格的にどうでもよくなってしまった。一眠りしようと、一階の自室のベットに寝転んですぐ、ドアを叩く音がした。
 開けてみれば、募集で写真だけ見た、短い茶髪のパーマ、しかし清潔なシャツに黒く長いスカートの、赤いハイヒールが似合う女が立っていた。

 怠さは一気に霧散する。少し下を向く、健康そうなその女を招き入れれば、女は言う。

「あの…アシスタント募集できました、」

 女が名乗る前に後頭部をぐしゃぐしゃに抱き口付けた。一回3万か、この手の女も。

「…ファンなんだって?ありがとう」

 ちゃんと微笑んでやる。5000円マイナスしても良いだろうか。

 入ってすぐあるベットに座るその女は恥じらうように俯いている。

「あの…」

 女が言う間に俺は隣に座って黙り込み見つめてすぐ、首筋に腕が巻かれてシーツに雪崩れ込んで。
 スカートから伸びる足は程よく肉がある。

 女とは生温い。

 右手に引っ掛かったさらさらした布。足をもぞもぞさせてくしゃくしゃに捨てられた、髪留めのようになったそれが引っ掛かる踝。漸く俺は心から女へ微笑みを向ける。
 あとも同じだ。生温い。吸い付く肌はしかし、俺より体温が高くて熱い。

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