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海馬から記憶を食べている何者かが僕の中に存在していたとしよう。僕の存在はそれに食べられてしまい、僕はそれの消化液と混じり合い排泄されるような存在だったんだと知ったとき、あの鉛筆画は夢のようで、僕の実態を掴ませ、また海馬に移植された。
シンクから少しの物音がする。
画家、五十嵐透の気配を感じた僕は目を覚ました。
入院していたベッドよりは遥かに使い古され、固くなっているそのベットだけど、何故だか、あれよりは健康的だと感じる。
敷布団は確かに五十嵐の脱け殻として僕の目の前に無造作にあった。
テーブルにはブルーライトのパソコン。画面はイラストのソフトがデジタルで映っていた。
静かにコーヒーを持って敷布団に戻る彼は、僕の起床に気付いたらしい。ちらっと目が合い「起きたかおはよう」と言う寝癖頭。
彼は、僕がここへ来てから敷布団を買ったのだ。僕としては床にそれを敷くのは些か不衛生に感じるけれど。
清潔そうに整えているイメージだった画家、五十嵐透は、案外粗野で面倒臭がりだったようだ。
「起こしちまったか」
どかっと敷布団に胡座をかいた五十嵐はコーヒーをテーブルに置き、「あぁ、飲む?」と振り向いて言う。そう、布団の上で飲食を出来るくらいの奴。
「おはようございます。大丈夫です」
身体を起こすには目眩がしそうな血圧。
しかし喉は乾いている。
まだ朝日は登ったばかりだろうか。カーテンも開けられていないリビングはパソコンのブルーライトのみだった。
「ああそう」とまたパソコンに視線を戻す彼の背中は広い。起き上がれるまで少しそれを眺めるのだけど、五十嵐は画面を眺めて頬杖をつき、悩ましげにコーヒーを啜っている。
パソコンの、恐らくは絵を描くソフトは真っ白だった。隣で覗き込んだ僕に、「どうもなぁ」とうだつが上がらない。
彼はどうやら、絶賛スランプ中らしい。確かにここ数年、大した話題を聞いたことはなかった気がする。
「カーテン開けますよ」
そもそもそういった健康だとか、そんなものが悪いんだろうと、絵の世界をわからない僕は思うのだ。
サナトリウムに居た僕が言うには少し説得力があるような、ないような気もするが、医者はよく言った。人は太陽を浴び、夜は寝て昼は活動すると。
そのわりに、僕がいたその世界は滅菌された箱のような場所だった。真っ白で、いつ見ても真っ白で。まるで死刑囚のように隔離される。
いや、死刑囚よりも僕は多分、世界から離れていた。
気が狂いそうだった。
あそこで僕は、人間は植物のように呼吸をして生きていくのだと身を持って知った気がする。
カーテンの外には朝の世界がある。
陽の光ほど遠いものはない。だけど朝焼けは新鮮で、気持ちが良いと感じる。懐かしさや、仄かに胸に広がる柔らかい気持ちに、僕は自然と目を細めた。
ドアを開けてベランダに出てみる。新しい息を吸おう。手すりに凭れて朝を眺めれば「おいおい」と、五十嵐は心配そうにベランダへ出てきた。
振り返っても隣に凭れても、彼は何も言えないような、心配が見て取れる表現で僕の横顔を眺めた。
「大丈夫ですよ」
何がだろう。自分で言ってもよくわからない。
結局、「地面、すぐそこですから」と言う曲がった意思表示しか出来ない。
案の定五十嵐は怪訝だとか、珍妙な顔で僕を見ては、ぎこちなくポケットを漁り「ほら、」と、何故かくしゃくしゃになった使い捨てマスクを渡してきた。
僕の気持ちは駄々下がりした。
「…は?」
これを使えと言うのかこの人は。何を考えて、ましてや口、マスク越しの呼吸に対しこれを僕がすると考えたのか?
「いや…、まぁタバコ吸うから」
「えっ、いや、風向きに対して言うのなら僕の左側に立ってくれればいいと思うんですけど」
「確かにくしゃくしゃだけど一応今出したやつだよ?」
困った顔で男前が的外れを口にする。
はっきりと、「なら細菌ガスを吸いますから」と告げてやった。
より珍妙に、「可愛いげのないやつ!」と言いつつも然り気無く、本当に僕の左に移動したので、仕方なく「わかりましたよ」とマスクを受け取りポケットにしまう。
五十嵐は僕からそっぽを向く、ように背を向けてタバコを吸い始めた。
案外子供っぽいよなこの人。
考えたら笑ってしまった。
「…なんだよ、」
「いやぁ、あんた子供っぽいですよね」
「言われたことないわ」
振り向いてしばし目があってから「まぶしっ」とタバコを持つ手を翳す。
笑いながら少し咳が出た。五十嵐が気遣うように「…ほら、まずコーヒー」と促され、僕は五十嵐と部屋に戻った。
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