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 それから五十嵐はそそくさとパソコンに戻り、肘をついて手元を動かしていた。
 柄悪く僕を睨むように見ているので、窓の前で立ち止まってみるも、「逆光で見えないなぁ」と、諦めたようにため息を吐いた。

 ならいいや、僕もコーヒーを飲もう。

 シンクの食器掛けから、雑草の鉛筆画がプリントされたカップを然り気無く選んでインスタントの粉を入れ、やかんで湯を沸かす。
 食器掛の真横にある、コーヒーメーカーのコーヒーは流石に飲めない。

「何か浮かんだんですか」

 シンクからちらっと覗いて背中に問えばパソコンには、過去の僕が五十嵐に送ったという、写真付きのアシスタント募集メールが開かれていた。

「んー、浮かんだのかなぁ?」
「それ、僕のですよね」
「そー…。いやぁ綺麗に写ってんなぁ。逆光もないよ」

 変態臭い。
 その写真は森の中。白い丸首ブラウスに黒の膝下スカート。どう見ても女性なのだが、記載された名前は僕の名前で、性別は男性。
 僕には記憶がない物だが、なんとなく写真は『僕なんだろうな』と思えるような、妙なシンパシーが沸く。

 僕はある一定の記憶がない。多分一年くらい前から、半年ほど。何故そこの記憶がないのか、それがサナトリウムにいた理由らしく。

 やかんが音を立て始める。
 ガスコンロを止め、お湯をカップの半分くらいまで注ぎ、冷蔵庫から3.6の牛乳を取り出した。

「あっ、」

 呟いた僕の声は多分五十嵐には届かない。僕は多分、通りにくい声なのだ。

 しかし、五十嵐から「どした?」と声が掛かった。そうか聞こえたのかと安心するような新鮮な気持ちで「五十嵐さん」と返事する。

「この牛乳、賞味期限明日までなんですけど」

 入れようか迷ったが、見なかったことにしてコーヒーに投入する。冷や汗をかきそうで落ち着かないが、カップのプリントに気持ちが若干落ち着く、ような。

「はぁーふん、」

 明らかに気のない、大して聞いていないだろう五十嵐の返事。
 そして考えていたらコーヒー牛乳が溢れてしまった。

「あっ、」

 再び呟くそれにまた「なに、」と、今度はシンクまでお出ましてくれた五十嵐が「あっ、」と気付く。

 思考が止まりかけたときに「あらあらあらあら…」と、仕方の無さそうな五十嵐の声がした。

「溢しました」
「うん、そうだな」
「これってどうやって運」

 持ち上げたらまた溢れた。「あーほら余所見しないの!」と叱られてしまう。

「吸って!コーヒー!」

 なんだかなぁ。
 ちょっと吸ってコーヒー牛乳をカップから減らす。
 ぼーっとする。

「あと俺がやるから…」

 あ、そっか。

「いや、すみません僕片付けます」
「いいですよ。まぁコーヒー飲んで落ち着いたら?」

 落ち着く?

「君、今ぼーっとしてたでしょ」

 少し心配そうに言われた。
 なんだか、申し訳ない気がした。

「すみません寝起き悪くて」
「知ってる知ってる」

 ちょっと…。

「…ごめんなさい、僕、ひとつに気が行くと、忘れちゃうんですよね」

 何で拭こうか、あたりをキョロキョロしていた五十嵐が、聞き取ったらしく「ん?」と動きをやめる。

「…後遺症、なんですかね。そんなもんらしいんですけど…」
「…あぁ、そうなの?」

 取り敢えず、確かに座ろうかな。カップには「T.Igarashi」のサイン。そうだ、これが現実なんだと、少し戻ってきた。
 何かを探し当てた五十嵐が、冷蔵庫と床につたったコーヒーを拭いている。
 思い出してその背に「五十嵐さん」と声を掛けた。

「なに?」

 と振り向いた彼に僕は言う、
「牛乳、賞味期限明日までです」と。

 ぽかんとした後に五十嵐は笑い、

「はいはい、わかったよ」

と、雑巾のような布を持って立ち上がった。

 シンクでそれ、洗っちゃうかもしれないなこの人。
 考えないことにして、一人でテーブルに戻った。

 コーヒーを飲んで、パソコンの横にカップを置く。
 パソコン画面をぼんやりと眺めれば、流しの音と、「それに気を取られたんか?」と言う優しい声。

 振り向けばやはり、シンクで雑巾を洗ってるらしいが、五十嵐の表情はなんだか優しかった。

「…普通、そこで洗います?」
「なにがぁ?」

 全然自覚はないらしい。
 まぁいいや。この人ゴキブリのようなやつだし。

 またパソコンをぼんやり眺める。

 きっと、どこを見ているかわからないこの人は僕なんだ。
 何を見ているんだろう、何も見てないのかもしれない。空気や空虚、光やら、目に見えるようで見えない何かだろうか。

 コーヒーを啜ってるうちに五十嵐が「な。綺麗だよな」という声は楽しそうだった。

 背に触れるような五十嵐の右手は湿ってる気がする。パソコンを見て僕を見るその目もはっきりとしていて。

「そうですね。手、洗いました?」

 なんとも言えない気持ちになり、そんないらないことを聞く。

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