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 その時は午後診療の最中だった。
 35歳の不眠症の主婦への処方をレキソタンにしようかデパスにしようかと悩ましいな、レキソタンで半月は様子を見ようかと処方箋を出したタイミングだった。

 次の患者を通そうか、そんなタイミングでケータイが緊急時のサイレンを鳴らした。

 看護師が「あれ、あれ?」とビックリするなかもしやと鞄を覗くまでもなく音がする。黒いスマホと白いスマホ。どちらだろうか。

「少し待って」

 と看護師に伝えて確認すれば白いカバーのスマホが「陽」と表示していた。

 今朝出て行ったときは悠の人格で…そうやはり朝はココアだったはずなんだけど。リビングで転がっていたのだから間違いなく確認したはずで、まぁ取り敢えずと電話に出ながら「もしもし」と陽のカルテをパソコンで開いた。

 なるほど、陽の精神的な息遣いと雑踏、混乱が混ざって聞こえてくる。

「陽だね、どう」

 したの。
 がしゃん、と音がしてざわめきと『ハルちゃん!』という若い男の声がし、遠くで救急車の音がするけれど。

『もしもし、』

 男の声は慌てたように呼び掛けていた。

「もしもし。陽がそこにいますか」
『あの、はい…』

 平然を取り繕うと頑張っているのだろう、声のトーンが低い。
 俺はその若い男に「場所はどこですか」とだけ訪ねた。

御茶ノ水おちゃのみずの、』
「あぁ、運ばれる病院はまだわからないですか」

 まぁ、別に分かるのだけど。GPSはあるし。だが、今朝は悠だった。

「…GPSをオンにしておいてください。いまから向かいますから」

 まぁ、病院なんて本当はGPS、入らないだろうけど。
 向こう側の若い男が『え?』と疑問そう。

「御茶ノ水なら…まぁ30分以内につくでしょう。救急隊員より早くつけばいいですが。医科大だろうとは思いますが場所がわかったらメールをください」
『えっと、』
照井てるい永一えいいちです。陽の主治医だと伝えてください」

 カルテをコピーしながら電話を切った。近くにいた友人といったところか、まぁいいのだけど眠気が強いのは嫌だなあ。

 しかし最近不安定気味ならばどうしようかな。確かに行き来が激しい。クエチアピンのせいかなぁ。いっそ統合失調よりもADHDに切り換えてみようかなぁ、けど昨夜吐いてたよな。

 微妙だなぁ、だが結果統合失調では落ち着いてないようだからコンサータ36と…ダメならサインバルタかなぁ。

 えっと。

 トラゾドン塩酸塩錠25を前回取り止めてみたのか。貧血は訴えてないが安定もしてないな。コンサータ、タイプが反転しちゃったかなぁ、いや、効いてないのだからいいかな。

 一週間は休学だろうな、あの友人は事情を把握しているかもしれない、冷静になろうとしていたのだし。頼めば大学ノートくらい取ってくれるような仲なのだろうか、まぁ仕方ないけれど。主な副作用がええっと食欲減退、頭痛、腹痛、悪心、チック、発熱、睡眠障害、動悸、口渇。厳重注意が剥脱性皮膚炎と狭心症と脳血管障害、肝機能障害、うんざっと見大丈夫かな。

「千葉さん、」
「はい。なんでしょう照井先生」
「親戚が倒れたから外さなくちゃならなくなっちゃった」

 看護婦の千葉さんは「えっと…」と対応に困っていた。そりゃそうだ、彼女はまだ俺の事情を知らないだろう、「大丈夫ですか」と無駄口で訪ねてくる。

 大丈夫だったら君に言ってなどいないのだよ。

「…中村さんに頼む。患者さんに伝えてきてくれないかな」
「えっと…」

 こんなの患者の方が慣れているだろう。だが、久しぶりかもな。

「『テリー先生は急用により休診。変わりに中村先生かベンジー先生が診察を行います』と。」
「えっと…ベンジー先生って誰ですか」
「そうか千葉さん、来たばっかだよね。精神科の浅井先生。俺ら土屋総合の“メンタルジェットシティ”って呼ばれてるの」
「なんですか、それ」
「千葉さん20代だっけ。ちょっとしたジョーク。俺はどうかと思うけどね。
 あとは事務員さんには伝えてでるから。よろしくね」

 ひらひら手を振って千葉さんを追い払いながら電話回線の2番、中村さんに電話を掛ければ『はい』と掠れた声が聞こえた。元ヤン風情の姿が目に浮かぶようだ。

「あ、もしもしテリーです。えっとそちらに患者さん何人かまわします。よろしくお願いします」

 あいよー、と聞こえたかどうか微妙だったけど電話を切って3番に掛ける。
 「もしもしテリーです」の時点で「ナンセンスだね」と断られ、切られてしまった。あのわしゃわしゃ頭め。今朝の濁った浅井の目が浮かぶ。まぁ掛けた事実があればいいと、俺は仕方なしと早退の準備を始めた。

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