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 いつもこの部屋に入ると感じる。窓際の天体望遠鏡と、端に追いやられたイーゼル、銀河の写真のカレンダーと、テーブルには国立天文台のペーパークラフト、悠は宇宙が好きだった。

 二人で夜中にこっそり、部屋の窓から星を眺めて。このときだけが私たちの一番穏やかな時間だった。
 大人も何もかもいない、私たちだけの静かな時間。あれはなぁに、なんだろうね、あれは牛飼い座、あっちが獅子座でこっちが乙女座と悠が楽しそうだった、小さい頃。

 ペン立てをひっくり返して机の二番目の鍵を取り出す。ノートが一冊とカッターナイフだけが入った異空間の机。

 ページをパラパラと捲れば、ページは更新されていた。

───
 陽へ

最近気候の変動が激しいですが、体調はどうですか?
俺は最近頭痛に悩まされています。なかなか夜も眠れません。

楽しいこと、嬉しいこと、色々思い出して、時間が過ぎるのが早いですね。陽もそうだったら良いなと、思います。

いついかなるときも。
           10月某日 ゆう より




自転:0、公転:2、日食:1、月食:1
潮汐破壊、頭痛にて。ロッシュ限界。デ:1s。2日
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 そうか、やっぱり一度悠はこの家に来たんだ。
 
 私が先生に引き取られてから悠とは会っていない、だけどこうして痕跡は残っている。

 頭が痛い。
 左手にカッターを当ててみるいつもの行動にふと、心が狭まった気がした。

 この沢山の傷が付いた手首に私は何を求めているのだろう。
 いつも悠はいない、私の側にいない。
 だけどこうして痛みもなくまた皮膚を割いてしまうのは一体なんでだろう。いま、ただ生きているだけ、生きていると実感しても、ただ。

 血が少し滲むのも満足か、そうじゃないかなんて特に意味もなく2、3本と続けて4、5本になんとも思わなくて虚しくなる。

 多分痛いはずなのにどうして痛くないんだろう。

 刃をしまって左手で頭を支える。目下に悠の、流れる血のような日記があるのに私は記号の意味すら知らないけど、そうだ……今日?昨日?この潮汐破壊という言葉は講義で出てきた。

 潮汐破壊ってなんだっけ。

 空いているスペースにそれを訴えようと、首を傾げるウサギちゃんの落書きをした。イーゼルには描き落とされてしまう、そんな落書きで良い。

 唯一の連絡手段なのに、この傷と同じくらいに背徳感を覚えるこの日記はいつもここに隠されて「先生に見つかってはいけない」と知っている。なんでかはわからない。この傷と同じ。悠と私の綻び。

 二人しか知らない隠し事なんて沢山ある。こうしてリストカットをすれば悠は優しいのだと認められるから嬉しそうだという歪んだ愛情も、悠はそれで先生に褒められたいのだということも。
 わかっているから止めるわけもない。

 僕が変わるから陽は傷を付けないでと言われたとき、私は悠を大切にしようと思えた。そんなことしないで、私も悲しいよだなんて、本当はそうじゃない、私が悲しいから悠にはそんなことをして欲しくなくて…、

あれ。

 そんなことをして欲しくないから、どうしたんだっけ。
 それでもいまもやめない私は悠の、なんなんだっけ。

 急に耳鳴りがした、右が引っ張られるから頭を抱えるのは両手になるのに潮汐破壊、頭痛にて。ロッシュ限界。割れそう、聞こえてきそう、陽、もうやめてよと泣いた悠は悲しかった、はずで、怖い、もうどうしていいかわからない、もう痛いからやめたい、だけどちらついてしまう、「貴方がそんなんだからいけないんじゃない!」と怒って腕を掴む大切な人が怖くて、だけどこの世には二人しかいないと信じているから、

 呼吸が止まりそうなほどに過剰。冷静。噛み殺さなければ、ふっ…っと苦しい、でもいまはダメだからお願い黙ってて、二番目のノートとカッターと鍵、苦しい、脳が、脳が……。


 はぁ、詰まった。

 ああ見える、助けてくれと踞っていた少年に私がなんと声を掛けたっけなあのとき膝を抱えてこのわからずやと歯を食い縛った恐怖はこんなことしていいのかなと思ったんだけど痛い、頭の奥が。抗おうとしたそれは平手で終わってしまいああ空気って何もないんだよ。

 そわそわする。
 これ以上は多分思い出してはいけない、寝ないと、だから呼吸を止めてみないと。

 動悸に気付けば冷や汗が出る。

 はぁ、ははっ。悠、会えないね。気付いたら病院だったんだもん。

 どこかで誰かが泣く後ろ姿が見える。誰かは「こんな子供、」と嘲笑するのだし、けれども先生は「大丈夫だよ」と言った。

 気持ちが悪い。

 たまに幻覚を見てしまう、幻聴を聴いてしまうんだと先生は言っていた。

 ノート、閉まった。上の引き出し、御子柴悠1日三回二錠、1句切り三錠、お水を飲もう。

 見えない。聞こえないのだから。

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