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 学校から帰る私は19時半の一日だった。どうも、眠いのか、お腹が空いたのか、脳に酸素が足りないのかはわからないけど、倦怠感がある。

「ただいま」

 玄関を開けて靴を脱いでスリッパを穿いて。何故だか毎度、変わったような空気を感じるのだが、それはいつものように慣れて暖かい。

 だけど。

 私の帰る場所であることに変わりがないのに、何故だか、別の場所だと感じてしまうことがある。

 リビングキッチンの扉を開ければ先生は、火を掛け見下ろした鍋から私へ振り向いた。

 それにもう一度「ただいまえいちゃん」と言えば、突っ掛かりににっこりと微笑んでから「おかえり陽」と、徐々に表情は深くなった。

「丁度良いところに帰ってきたね。いまパスタをナポリタンにしようか和風にしようか迷ってたんだよ」

 程よく、滑らかな低音。
 笑顔で手招きされてキッチンの、先生の側に行ってみる。
 ザルにあげられたパスタはもしかすると、鍋からあげて少し、経ってしまったのかもしれない。

 先生が私を側に呼び出す理由は本当はなんだって良いのかもしれない。鍋の側で緩く抱きつくように、お腹に両腕を回されて長身が左の首筋、耳元で「陽はどっちがいい?」と聞かれるのにドキッとするけど。

 少し横を向いただけでキスをしそうな距離。
 私はこんな瞬間、何故か物凄く頭の奥が覚めてしまうのを先生は、知っているんだろうか。

「…先生は、どっちがいいの?」

 その問いに先生はお腹の腕は離さないままに身体は離して「そうだねぇ…」と染々とした。

「俺的には今日は…ナポリタンでもよかったんだけど、陽は和風が好きだよね」
「うん」
「じゃぁ、和風にしよっか」

 やんわりと自分から離れて先生を見つめる。それでも先生は嫌味なく爽やかに微笑んでくれる。

 この瞬間の煌めきは夜の星に近いのかもしれない。

「お腹すいてる?すぐ作るから」

 私はなんとも言えない気持ちで頷いて、冷蔵庫に入ったリンゴジュースをコップに注ぎリビングのソファでボーッと考え事をした。
 源蔵くんと栗山さんのことがふらっと頭に掛かる気はするのに、結局それも遠くなってしまった気がした。

 先生がパスタを焼く音がする。
 これが、私の慣れた生活。
 眠くなるのが近い夜。
 
 パスタを盛り付ける気配は音でわかる。
 キッチンのライトも消えたようで、「お待たせ」とお皿を二つ持った先生は、そう言えばまだ、前髪を上げたままだし、服もシャツと黒いパンツ。どうやらネクタイは私の後ろのソファに投げてある。

 和風のパスタを私の前に置いて真隣に座った先生は「じゃ、」と言って手を合わせた。
 それに合わせて私も手を合わせ、「いただきます」をすれば、先生は「はい、」と、妙に嬉しそうだった。

「うまく出来たかなぁ」
「先生、」
「ん?」

 一口食べて「うーん、大丈夫かな」と自己評価をした先生に習って食べる。先生の自己評価通り。しょっぱさもキノコも美味しい。

「…帰って来たばかりなの?」
「ん、まぁ…」
「美味しいよ」
「よかった」

 そう言ってお行儀悪く先生の左腕が回され、その先生の手が、然り気無くそれから私の左手首のリストバンドをまさぐるようで。

 「食べにくいしお行儀が悪い」と嗜める。左の傷は痛かった。
 「厳しいなぁ陽は」と笑う先生は飄々と、右手でパスタをくるくるしている。

 綺麗な眉と二重は唯一、クールな先生の印象を柔らかくするアイテム。
 ここまで間近にご飯中に見るものではない。私は、こんな先生には敵わないところがある。まだ着替えていない“先生”の臭いも、そうで。

「…先生、」
「…陽、いまは家なんだよ?」
「だって着替えてないもん」
「そうだね。けど家だもん」
「…えいちゃん」
「なに?」

 今日ね、

「…今日、上野あたりで降りちゃったみたい。貧血で」
「ん?」

 少し顔をこちらに向けたって、先生の顔は近い。
 
「…あまり、覚えてないんだけど」
「…貧血?」
「うん、目眩がして」
「それで起きたの?」
「起きたというか…」
「嫌なことでも、あったのかなぁ…」

 左手を然り気無く引いて離れてみる。あっさり先生の手は去っていき。
 おかげでパスタは食べやすくなったけど、今度はフォークを持ったまま先生は、少し途方にくれてしまったようだ。

「…言っといた方がいいのかなって…」
「うん、そうだね…。
 食欲はあるみたいだね」
「まぁ」
「まぁ、そうだね。食べよう」

 それから二人で和風パスタを食べる、先生はずっと考え事をしていたけれども。

 「ごちそうさま」をすれば手を出して、お皿を片してくれるのかと渡そうとすれば「違うよ」と言われてしまう。
 観念してリストバンドの手を出せばそれは剥かれていくつもの傷が露になってしまった。

 どうせバレてることとは言え、医者にこれはやはり気まずかった。
 だけど先生はいつも優しくその手で包み、「辛い?」と聞いては傷に軽く唇を当てるのだ。

「…先生」
「違うよ」
「えいちゃん」
「なんだい」
「…どうしても治らないの?私の病気は」
「治したい?」
「…わからない」
「そっか」

 手を離した先生の笑顔は陽だまりのように切なかった。

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