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 生活音、匂い。久々に住人を感じる。隣の住人すらあまり知らないような都会の夕飯時だけど、201、端の部屋付近のカレーの匂い、それだけで満たされる気がした。

 楓と出会ってから越してきたアパート。当たり前だけど上京したての当時は「おかえり」だなんてほとんどなかった。あっても大学連中の溜まり場で、酒飲んで…という具合だったなぁ。大学の恋人も、「おかえり」はなかった。

 鍵を開けて広がった温かい匂いに、「ただいま」がそぞろになる。多分、キッチンの扉の向こうにはなかなかこの声は届かないのだけど、開ければベターにカレーを作っている楓が少し顔を傾けて「おかえり」と言うのだった。

「ただいま」

 それも溶け込むような声で。
 じわりと温かさに気持ちは急き、側に寄れば漸く楓は俺を見て「お疲れ様」と言ってくれた。カレーの味見をしていたらしい楓は緩やかに笑い、「もう少し待ってね」と付け加える。
 それだけで、仕事とかすべての憂鬱はなくなりそうだった。最近の背中とは、違うもので。

「いま」
「うん」
「玉ねぎを入れてから…」
「うん」

 我慢はしたかったのだけどビジネスカバンはその場で手を離れ、楓の腹辺りにその手はまわる。楓のウエストが細く感じて、肩も顎が乗せやすい位置にあって。
 体温を感じる。

「…こらこら」
「腹減った」
「味見する?」

 あっさり、頭はカレーよりも緩やかな表情の恋人ばかりになってしまった。ふいに俺を見た楓は少し拒むだろうかと思えば、あっさりキスを受け入れてくれて、疲れや、考えや、その瞬間甘くなってしまうような生ぬるさがあるけど、カレー風味な気がした。

 なんとなく今日はいけそうだな。当たり前か、もう一週間以上だ、互いに。

 「火が着いてるからダメだよ」という楓に夢中になる手前でやめ、「玉ねぎ見えないけど」と鍋を覗き込んだ。

「玉ねぎはもう少し、苦味がなくなるまで煮込みたいな」
「苦味?」
「うん。火をつけ始めたから…10分くらい暖めたらいい頃合いかな」
「意外と手が込んでるよな」

 カレーは誰が作っても不味くならないだろうと思うけど。一味違う、楓のやつは。

「まぁ、着替えてきなよ」
「うん。ついでに風呂洗ってくるわ」
「風呂?洗ってあるよ」
「え、」
「…だって、寒いし」

 …これはかなり期待大じゃないの。そうやって少し俯くのも、それから見つめてくれるのも。

「…ねぇ楓」
「何…?」
「秘湯クイズやろ」
「あぁ、」

 少し、空気は緩くなり。
 楽しそうに楓は笑った。

「前回どこだっけ」
「忘れちったな。入浴剤の数見て入れるわ」
「味気無いなぁ。肩こり取れるやつとかどう?」
「そうやって誘導して」
「誘導でもないでしょ、そんなに変わらないし」
「味気無っ」
「これは濁り湯外してくるかな」
「やっぱ誘導じゃん!」

 当てたらなんかある?と聞く楓への返答に困ったけれど、まぁ、互いにそれは何だっていいのだ。代わりと言ってはなんだが「だから先入っていいよ」と答える。

 離れても体温の余韻に充分酔いそう。

 あの広さだと流石に男二人は無理だなと頭によぎる。あぁ、一緒に温泉行きたいかも、一度くらいは。

 千葉って温泉あるのかな。う〜ん、有名ではないよな、だけど温泉って大体あるもんだよな、きっと。
 まぁ、馴染みがないから温泉の素なんて買ってくるんだよな。俺だって「東京にある?」とか言われてもぴんとこないし、あるかなぁ。というか、有名などっか、近くなら箱根だっていい。そういうところに行ったらどうなんだろう。

 そんなことから楓を考えてみる。

 寝室で着替えて、脱衣所の洗濯機にシャツを入れて、クリーニングは普通土曜日に行くんだろうなと考えながらまずは温泉の素を確認した。丁度箱根湯本がある。
 効果は大してわかんないけど、まぁいいや。どうだっていいことにリラックスするのだから。

 とか言って、今日外れたらどうしようかな、いや、まぁ俺も色々準備しよう。求めるものが一緒ならそれでいいよ。
 考えることが早くも湯だっている。
 でもまぁ、いまだって充分楽しい。

『からかってんの?』

 ふと。
 舌足らずに暗がりで言われたあの日を思い出した。

 楓。
 あれは運命だと言うには少し暗いかもしれないが。

「真麻。えっと、真実って言う字と大麻って言う字で。あんたは?」

 汗ばんだ耳元に吹き掛けて言っておかないと、この人はきっといなくってしまうだろうとなんとなく思ったが、次の瞬間にぶっ叩かれた頬は確かに、女にされるより力があった。どんなに虚ろでも。

「バカじゃないの」

 確かに、

「…実はノンケだったわけじゃないよね?」

 掌サイズの空いているボトルがなんとなくヤバそうなものだと、伸ばされた楓の細い手首を叩き落とすことに罪悪感はなかった。

 後に知る、やっぱりちょっとヤバめなもんで、界隈じゃわりと普通に使われる劇薬であり、一緒に中部屋へ入っていった男から貰ったと。確かにあいつ、腕とか刺青してる、いかにもな男だったな。

 この辺は出会いだと言うのに、「あのオンナ、マジでいいわ」とすれ違い様に言ってきたあいつを思い出すとなぜ殺しておかなかったかなと単純に腹が立つ。
 …だが、皮肉にもそれがありいまがある。俺はそれほど、良いヤツではない。
 実際、あの日のことを楓がどこまで覚えているか、俺に知る由もない、忘れたいなら、忘れちまえばいい。

 と、やり場なくして風呂の排水スイッチを入れる。そう、これがあると温くなると、こんな暮らしを始めてみて知った。普通、蛇口から湯なんて入れるだろうよ、26にしちゃ相当ハイテクだ。

 確かに、初めてにしては熱くて、堪らなくて、虚ろで、だから上擦った声が切なかった。跨がった楓を抱き締めたのはエゴだったのか、物にしてしまいたいと思ったのか。

 排水が済み給湯を開始するまで眺めた。

 あぁ、なんだもう俺ちょっと反応中。最悪だ。楓が気付きませんようにと深呼吸をした。

 助けたかった?
 あの日の欲にまみれた瞳がちらつく。確かに、呼吸不全なまでに助けは求められていたよと、自分に言い聞かせて。

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