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「…いまでも良い人ですよ、南沢真夏さんは」

 その一言に南沢がちらっと、自分の横顔を見たような気がする。多分、南沢が予想するよりも自分の顔は穏やかなはずだ。なんせ思ったより、穏やかな気持ちだから。

「長年その思いを守ったのは、貴方でしょう、南沢さん」
「…真冬、」
「貴方に、お兄さんを越えたいという劣等感が強かったとして、……でも、自身の予想よりはお兄さんに対して優しいと思いますよ。教えてやりたいとか、単純に悔しいとか、わかりませんけど。
 俺も確かに、だから劣等感に苛まれたんですね。でも、俺はいま……少しだけ。始めはわからなかったけどソラがいなくなっちゃったら、て実は考えました、寂しいです。そんなこと言って良いのかっていうのも劣等感で…」

 顔を上げた南沢はやはり、情けないほど泣いていたようだ。
 
「少しわかる気がしますよ南沢さん。じゃぁどうなるのかなっていう気持ち。人は少しだけいまより幸せになることを考えるでしょ、これは生物学じゃなくて。ロマンって言うんですかね?」

 はっきり笑って雨川は南沢を見てやった。

「聞いてやりませんか南沢さん。ソラに、どうだいって。子供の未来って大人がさ、」

 勢いはよかった。
 激しく、この感情を本能というならと、南沢は雨川を抱き締めたいと激しく思ったのだけど、勢い余ってシートベルトに突っ掛かってしまった。
 「うっ、」となる南沢に「アホなんですか南沢さん」と言いながら雨川は自分のシートベルトを外し、南沢のシートベルトを外しにいくフリをして抱き締めた。

「まっ………、」

 相手の動揺が手に取るようにわかるのは痛快だった。

「……単純な人」
「えっ、と…」

 何も言えなくなった南沢に「どうでもいいって、」と雨川は言う。

「どうでも……いいって、」

 二回目に噛み締めるように言った雨川と、その震える、耐えたような声に漸くそうか、と、「…ごめん、」南沢は素直になれた気がした。

 雨川の背に恐る恐ると手がまわされて、それは優しくも震えている。震えていても、それから後頭部を撫でるのに察した。

 「好きだ、」あぁ、そうなんだきっと、「好きだよっ……」当たり前に知っていた言葉も、この男は痞てしまうほど臆病で優しかったのか。  

 答えられない感情がじわりと胸に湧いて染みる。くすぐったいような、切ないような、痺れるような。

 言った南沢の湿った息に「南沢さん」と雨川は呼び掛ける。合った瞳は子供と大人を兼ね備えた、イノセント。

「…ソラに、見せたいものがあるんです。お腹も空きました。それから進みましょう」

 子供をあやすような、大人の色気のような、意外なようで前からあった気もする声色が出た事が不安定にも感じる。
 だけど雨川は、何故かそれでもいいと、考えもせずに思えた。どこか遠い自分に自覚が掴めない。

 体温を離そうとすれば南沢が「真冬」と呼ぶけど、いざ目が合うと間の後に「なんでもないや」と笑う事が、勝手ながら軽くなったように、見えた。

 それから雨川がシートベルトを着け直すのを確認して車は目の前の距離をゆっくり急いで南沢のマンションについた。

 雨川にとってここは、二回目の訪問。緊急事態で生理的に受け付けた場所。

「マフユちゃん、帰ってきたの?」

 ととと…と足音がしてソラが出迎えてくれた。君とあと何年か一緒に過ごすだろうか、それがいいなと不安そうなソラに「ただいまソラ」と、ごめんねより先に出ていく。

「お帰り、マフユちゃん、ダイジョブだった?」
「うん。心配かけてごめんねと、色々ごめんよ」

 玄関先でそれでも少し躊躇うようなソラと真冬に南沢は然り気無く真冬の背に手を置いて。だからソラを抱き締めることが出来て。

「サビしかったの?」

 ソラの声は耳元で、いつも通りにあっけらかんと純粋だった。

「…うん。すっごく。
 ソラ。ソラに見せたいものがあるんだ」

 興味か不安かという疑問の表情とあえば雨川は素直に笑うことが出来た。
 
「石ころの写真なんだけど。夜空に浮いてる惑星なんだ」

 またソラを抱き締めれば、子供の臭いかもしれない。

 ソラはふふっ、と笑って「マフユちゃん、楽しそ」と穏やかに言ってくれた。

「マフユちゃんの楽しい話、聞きたい」

 ソラの強さに少しだけ不覚にも泣きそうになった。

「…うん、俺もソラの…色々な話聞きたいよ。ソラはどうしてそんなに強いんだろうとか、そんなこと」
「…お腹すいたでしょ、マフユちゃん。肉じゃが出来たの。よかったら食べて食べて」
「凄いね。練習の甲斐ありだ。ありがとう。
 南沢さん、今日は帰るのダルいんで泊めてください」
「…俺としては超歓迎で嬉しいけど…」
「あー、お泊まりセットはあとでなんとかします。まずは腹拵え」

 心配事も少ないし実は凄く小さくてくだらないことかもしれないな。

 雨川とソラを眺める南沢はぼんやりとそう感じた。
 自意識の過剰接種だ。もう少しだけ愛すること、人とのことに陶酔したい。
 けど、始めからきっとそうで、ただの自覚の違い、それは方向だ。

 そう、考えた。

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