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「生死の約束か」
一人残された暁子はふと思い出した。
『今更死にてぇだなんて甘いことは言わないさ』
最後に逢った日の潤はそう言った。
色々と話してくれた日の朝だった。何故、自分に話してくれるのか、わからなかった。
『あんたは本当に良い人だな。生きにくいだろうな、人生』
その一言が引っ掛かって。だけども少し、その諦めきった微笑みに気が楽になったような気がしたのだ。
悪いな、潤。
だがあんたはどうやら一人ではないらしいな。
暁子はぼんやりと、ケータイを手にして、見慣れた番号を呼び出した。
3コール目で繋がる相手。空気が、重くなる。
「よぅ、“ケルベロス”」
『あぁ、“ヘルメス”か』
聞き取りやすい落ち着いた声。反響はない。職業柄こんなことに気を向けてしまうのは最早病気かもしれないなと内心暁子は己を嘲笑する。
「早速だが邪魔な者は消させてもらうことにしたよ」
『どういう?』
「速見だよ」
『…それは先回りしたなぁ。というか危ない橋を渡ったなぁ』
「しばらくは高みの見物になりそうだがな」
『誰か雇ったのか。君じゃぁ、まぁまぁ優秀なのがいそうだね』
「あぁ、まぁそこそこだな。狂犬と忠犬だな」
『もったえぶんなよ』
「直にわかるだろうがまぁ、あんたと一緒で日本組織ではないが、今は…厚労省にいたかな」
しばらく沈黙が走った。
『お前、なかなかやり手だなぁ』
「面白いだろ?」
『サイパン楽しんで来いよ』
「なんだそりゃ」
『言葉の綾だよ』
「あんたが言うと怖いな。で、ミノハラはどうした?」
『あぁ順調さ。このサイコパスは最早これに掛けての天才だ』
「あぁそうかい。まぁ、楽しそうで何より。じゃぁ、また報告するよ」
『楽しみにしてるよ。そうそう暁子』
「なんだよ、やめろよ」
『はいはい。
道中気を付けて。君も一端のFBIなんだから』
「…?はいよ、ご忠告ありがとう」
意味深な発言を最後に電話は切れた。
なんとなく背筋が凍るような悪寒を感じたような気がした。この男と話した後はいつもそうだ。
どうにもこうにも順調。順調過ぎて怖いくらいだ。まるでこれは、嵐の前の静けさのようだ。
取り敢えず一人、居酒屋の会計を済ませて外へ出た。
次の瞬間、何が起きたかわからなかった。ただ、その場に倒れ、薄れゆく視界の端に見えたのは指先の薬莢と、広がっていくどす黒い泥水のような、血で。下がっていく体温と意識が、まだ痛みを認識しなかった。
「なっ…に」
遠くで悲鳴が聞こえる。
遠退く意識の中で最期に、あの|女《ひと》の柔らかな笑顔だけが目に染みたような気がした。
「まきっ…」
手を伸ばして。
完全にブラックアウトした。辺りには血ともう一つの薬莢と、脳髄が一筋飛び散った。
横山暁子もとい|横溝《よこみぞ》暁子の生涯は、サイパンでの結婚を前にして29年であっけなく幕を閉じてしまった。
サイレンとパトカー。しかしまだ彼らは、彼女の殉職と存在を知らずにいた。
流星は喧騒から離れ、GPSだけを便りに六本木へ。
潤は、その六本木のレストランで相手を待っていた。
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