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それからゆったりと、二人で散歩をして、あの喫茶店でランチをして、やっぱり公園にも行って。
1時間くらい外出をした。
受付に挨拶をすると、まだ増山先生は戻っていなかった。
二人で病室に戻り、話をしながら、環の描いたスケッチを見たりして過ごした。
「環。
好きな食べ物、ある?」
「え?」
「今日は何が食べたい?帰りに買って帰ろう。俺、並の料理なら、出来るんだ」
「流星さん、ホント?」
「うん。家政婦、やれるくらいには」
「家政婦…」
「昔だけどね。環と出会った頃くらい。凄く食い物に、うるさいやつと住んでた。俺の保護者でさ」
あいつはめっきり家事が出来なかった。日本に初めて来て、12歳の俺は何もわからないまま、住むことになったあの家の掃除から、日本の生活が始まった。
「新鮮だった。
俺が育ったところは、多分そんな、何かを自分でやろうとか、そういう概念がなかった」
「そう…なんですか?」
環が疑問を投げ掛けてくる。
しかし俺にはこれしか出てこない。そもそも、わからないのだ。
「だって、日本に来たとき、まるっきり家事とか、生きていくことに必要なこと、わからなかったもん」
「日本じゃ…なかった?」
「多分。どこだろうなぁ…暑いところだった気がする。日本に来てすぐ、寒いし、水とか食事が合わなくて、ダウンしたから…東南かなぁ?」
「しらないの?」
「覚えていないんだ」
なんだか環は途端に悲しそうな顔をしてしまった。
そうかもしれない、普通なら。
「環、」
だからこそ。
ちゃんと笑顔で、環の頬に触れる。仄かに温かくて、すべらかで。
その俺の手を、環は自分の手で包んでくれた。その現象に、なんだか。
「流星さん」
「…ん、はい」
一瞬反応に遅れてしまった。
見ている事象がとても鮮やかで、心地よくて。
不安そうな顔から環は、少しだけ微笑んで「得意な料理」と言った。
「ここに来て、たくさんの料理を、知りました。なので、」
「…わかった。
嫌いなものは、ない?」
首を横に振った。
喉の傷が気になる。
「得意料理は後でのお楽しみにしようか。今日は、うどんにしよう。
まずは、そんなものからにしよう」
環が頷くのと同時に、病室がノックされ扉が開いた。
「あら」
増山先生だった。
俺たちを見てにっこり笑ったので、ふいに恥ずかしくなって俺は環から手を引っ込めた。
「すみません、楽しそうだったのに。
青葉さん、」
「はい」
「あら、」
はっきりと発音した環に、増山先生は驚いたような表情を見せる。
確かに増山先生からしたら、大きな変化だろう。
「…たくさんお話をしたのね。
一応、急ぎで書類を貰ってきました。壽美田さん、退院してOKです」
「案外あっさり…」
「まぁ、青葉さんと壽美田さんのことは、逐一、前の担当医も委員長に話していましたから。理事長にも伝わっていました。なので現状報告をして終了でした。カルテもまとめて提出したし。
まぁ、異例パターンですけどね。ちょっと私がワガママを通してきた感じです」
「大丈夫なんですか、増山先生は」
「私?私は大丈夫です。
医者ですから。患者さん第一。私の判断は退院がベストでした。
じゃぁ青葉さん、しばらくは…火、木に問診と土曜日にリハビリで。何かあればすぐに何曜日でも対応します。
良くなれば通院も減らしましょう」
「はい、」
「では、書類です。
帰りに寄ってください」
増山先生から、5枚くらいの書類を受け取ると、そのまま出て行ってしまった。
「取り敢えず、荷物、まとめといて?俺この書類書くから」
まぁ、大体こんなのは名前と印鑑だけだろうけど。
「はい」と環は返事をし、ちゃっちゃと荷物をまとめ始めた。
書類は退院の同意書やら、支払いやらのことが書いてあっただけだった。
名前の欄、一瞬迷ったが、結局『壽美田流星』と書き、判を押す。
荷物と言っても着替えくらいしかなかった。鞄ひとつに納まった。
ついに、こんな日が来たんだと、空になった病室を見て思った。あぁそうか、あれから7年。こんなにも時が掛かった。
気持ちは晴れやかだった。環も同じ気持ちなのか、黙って手を握ってきて。
至極普通を努め、「帰ろうか」と言えば、環は頷くだけで。
病室を出て受付に行けば、看護婦さんや増山先生が泣きながら「おめでとう」と言ってくれた。
環は一人一人にハグして少しもらい泣きしながら挨拶をし、漸くこの精神科、病院をあとにする。
本当に環は、人を愛し、愛されていると感じた。
ひとつの大事件の末端を見た。長かった。
「お疲れ様、おめでとう」
俺も改めて彼女に伝えた。
その言葉がこんなにもじんわりとするだなんて、思いもしなかった。
環はまだ少し涙が残る瞳で「ありがとう」と言ってくれた。
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