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かつて自分は“昴の会”にいた。
そこで自分は、人間のような生活を送っていなかったと、伊緒は思う。
しかしそれでもどこかでは信じていた。ホテル“R'e chanteur”の事件までは。
あの時は恐怖すらなかった。自分がやっていることは“無”でしかなく、どこか正しいとすら思っていた。“彼”は人類の元へ帰った、だが昔からそうだ、そのための数多の怯えには動じることがない場所だった。
自分の父と母と同じ事をしているのだと、漸く気付いたのは、官房長官の娘を必死に守ろうとした二人がいたからだった。
何故、ずっと、いつから。
自分もあの子供のように逃げられず、数多の怯えの中から産まれた存在だったはずなのに。いつの間にかこんな状況を作り出していると、初めて恐怖を覚えたのだった。
繰り返される凌辱や拷問に耐えた自分は、あそこではずっと、数多の怯えに成り下がっていたのだと知った。
何より、「救ってくれますか」と尋ねた自分に「救って欲しいのか?」と尋ね返した彼に、自分は酷く動揺した。
壽美田流星は伊緒に決定的な答えを提示してくれなかった。
それで考えさせられたのは事実だった。
共に居るにつれ、彼は酷く残酷かもしれないが、悲しく優しいのだと知れば、人と接する難しさを感じる。まだまだ答えはいくらでも、あったんだと気付く。
彼のことは崇拝はしないが、伊緒の中ではあの弾の抜かれた拳銃のよう、後を残した人物だ。
彼が託した、1つの銃弾を隠したジッポライターが答えのような気がしている。
一人帰宅して延々と考える。俺はまだ、任務の途中だった。
何故、環が教会を抜けたのか、彼女は彼に会ってどうかわったのか、何を感じたのか、少し怒りに似てきていた。
ショックで覚えていない。
それは彼女にとっては本当に良いことなのか、わからないでいる。俺はいま、いなくなった部署の仲間だって、気になっているのに。
「ただいまです、」
部屋のドアを開けてひっそりと伊緒が言えば「おかえりなさい」と、環はリビングのソファに座り、小さな音でテレビを見ていた。
振り返り自分を見る環の笑顔は優しかった。あの人を包むのはこういう人なのかと、たまに痛感するくらいには、彼女は優しい。
「流星さんは、残業ですか?」
無邪気なように聞いてくる環に少し、あの事件と離れることが非現実的なんだな、と気持ちの悪さを感じた。
「ええ…」
さて、夕飯の支度をしようと考えて、伊緒は荷物をリビングに置き、シンクで手を洗う。
ふらっと現れた環は「じゃぁ、」と笑うのだった。
「…伊緒くんも、疲れているのですか?」
そんなに顔に出ていたかと知る。
「え、はぁ…」とどもっていれば、優しく両肩に手を乗せられ、「じゃぁ、」と優しく諭すように、リビングのソファを促された。
「おやすみください。夕飯は私が作りますよ」
「えっ、」
それはまずいかもしれない。
環は綺麗だが、めっきり家事が苦手なのだ。記憶障害を負ってからの入院生活が長かったので、ゆっくりと教えながらやらないと、と流星は言っていた。
「…大丈夫です…何かあったら、呼ぶかも…」
「…環さん、では、一緒にやりましょうか」
「え、」
「無理はしないでいいです。いつかちゃんと一人立ちして流星さんのお役に立てる日まで、頑張りましょう」
いつか、きっと二人は前を向き、環が流星の帰りを待つ家庭があるんだろうと想像してみる。
何故だか|靄《もや》が掛かるのは、自分の家庭がまともではなかったから、想像に及ばないのかもしれない。
「そう…ですね」
「環さん」
少しはにかんで言う環に、ふと口を吐いたくらいには、追い込まれていたのか、なんなのか。
冷蔵庫を覗いた環にそのまま続けてしまった。
「あの人と出会って、どう変わりましたか」
不躾だったが自然に口から出ていってしまったのだ。
最近、自分はよくわからない感情と戦い、モヤモヤしていたのかもしれなくて。
冷蔵庫の扉から伊緒を眺めては「どうって?」と、心底冷えたような、挑戦的なような、不安定な表情を見せる。
これは恐らく、流星が知らない彼女の表情だった。
一瞬だけの出来事に疾患を感じ取る。
少し固まってしまった伊緒を気にせず環は、玉ねぎを取り出して何事もなくいつもの淡々とした、優しさが漂う態度でまな板を台所へ敷いた。
「…今日はカレーですかね」
平然にしようと伊緒が、それから然り気無く料理の選手交替をしようと場所を変われば、「伊緒くんは、」と環は続けた。
「ん?」
「伊緒くんは、どう変われましたか」
少し、低い声だった。
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