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ハッとして伊緒が環を見れば、環はどこを見ているのかわからない、宙を眺め、なにかを考えるように言った。
「私にとって流星さんは、ヒーローなんです」
「環さん、」
「声がなくても話が出来る、乱暴もない、光も何もなかった私に声を、掛け続けてくれたから」
「…もしかして、環さん、」
「私はずっと嘘を吐いてでも、彼には離れて欲しくなかった。まだ彼も私も、救われてなんて、ないんです」
はっきりと伊緒を見つめ、環は言った。
「私は全て、覚えている」
「えっ、」
驚愕だった。
全て、とはもしかして。
その原因となった事件のことも、含めてだろうか。
伊緒の手が止まった。
「記憶なんて消えてくれない、だから私はそれを伝えようと、流星さんと話を、してきました」
「それは」
なんて。
「そんなの間違ってませんか、環さん、」
勢い余って言ってしまったが。
じゃぁ自分はどう違うのかと考えれば、不味いことを言ったと感じた。
「間違ってると思ってます。
だから、私は新しい記憶を作りたかった。彼にも、そうで、」
それは…。
「…流星さんの、…樹実さんの事ですか…?」
環は答えなかった。
茅沼樹実は今や、元凶の殺人教団に荷担し、結局はそれを潰して流星が、殺した男だ。
茅沼樹実の心情はわからない。だが彼は、流星を拾い名前を与えた筈だった。
このままでは流星は再び、
しかも、愛する|女《ひと》に裏切られるのではないか、伊緒にはそう感じてしまったが。
静かに涙を流した環は綺麗だった。握る拳は震えている。
俺はエゴを履き違えてしまったのではないかと思い始めた。
「…わ、私を、忘れたら、彼は楽かもしれないけど、
どうしても、忘れて欲しくなかった私は、ひ、酷く醜い、女かもしれないっ、」
「違う…」
そうは。
ぐっと、環を抱擁することすらも堪える自分がいる。歯を食い縛るような思いで。
「そうは、」
思って欲しくないだなんて。なんて傲慢なんだろう。
なんて、軽率だったんだろう。
「ごめんなさい、そういうんじゃくて…」
少しイライラしていた、それじゃすまない。
けどじゃぁ何を言えばいいんだ、ただやっぱり。
「…俺も環さんも流星さんだって、同じもの抱えてるじゃないですか、」
じゃぁなんで言ってしまったんだ。
「だから、だから、」
一緒にこれを乗り越えたかったのかもしれないだなんて。
自分だけじゃないのかもしれないだなんて。
「…ごめんなさい、」
謝った環は慌てるように忙しなく涙を拭い、拭いきれないままに「すみません、」と。
いたたまれなくなったように部屋を出て行ってしまった。
一瞬唖然とした伊緒はすぐにハッとして、「ぁっ…」と切迫する。胸に走る痺れはまた少しだけ行動を遅れさせるが、ただただ「環さん!」と、夢中になって外へ追いかけて行く。
俺はなんてことをした。
ただの暴力で、ただの傲慢で。
「…環さん!」
マンションの外廊下にはいない。エレベーターより、階段の方がいいのか。咄嗟の判断で夢中になった。
どこかで自分を可哀想なやつだと卑下したような気もする。どこかで環を蔑んだ気もする。
どこかで、あの教会を憎んできたチャペルが不意によぎってしまったような気がする。
走るように階段を降りて、「違うんだ」と叫びたい自分がいる気がする。だから解り合いたかった、だから聞きたかった、受け止めたかった。
自分も彼女も、関わった人間は全て、同じ形をしているんだ。
一回のオートロックまで来て伊緒はふと立ち止まり唖然とした。
人の匂いはあるのが生々しい。しかし何故だ、環はいない。
エレベーターは来たんじゃないのか、もう外に出てしまったんだろうか、環は。
改めて頭が冷えていく。
もしもが過ってオートロックの扉を開け、外をキョロキョロしてみるが、不思議なくらいに何もない。
…変じゃないか?
胸騒ぎがする。なんだかざわついた心中にかしゃりと、耳元で聞き慣れた鉄の音がした。
どうして、どこから気配を消して現れた。そんな人間は限られる。
ヒヤリと酸素を奪われた頭は動かせない。咄嗟に丸腰の両手を上げて伊緒は降参し、音がした右の蟀谷当たりに視線を寄越した。
「ま、」
覚えがあった。茶髪のヤンキーみたいな、瞳孔が開ききった半にやけのこの男。
「しゃべるなダッチ」
「はっ…、」
思考が停止した。
箕原海の側近、脱獄犯の|御子貝《みこがい》|遊助《ゆうすけ》だった。
本能が警告を鳴らす、ヤバい。ついにバレた。このまま俺や環さんや流星さんはどうなるんだ。
見下ろす瞳孔開いたラリった目の御子貝は「くっ…ふふははっ、ふは…」と腹の底から笑う。ダルそうな動作でタバコを取りだして咥え、火をつける。
「チェックメイトだな、狂犬野郎」
それは、
「はっ、」
環はどこにいる。
「ばっ、た、環さ」
「しゃべんじゃねぇよクソダッチ。ふっ、ははははは!」
ヤバい、これは。
ふいにふらっと御子貝が背後を眺めてタバコを持つ手をぶらさげる。何かを伺った様子からすぐに、「じゃぁなダッチ」と背中を向けた。
もしかして、もしかしなくても。
「あんたら、もしかして」
御子貝がふらっとタバコをあげてあばよの挨拶。降ろしてその場に吸い殻を捨て、足で消した。
やられてしまった。
「うっ、」
叫び出しそうになった。
大変だけじゃすまされない。
伊緒は荒い息のまま流星に電話を掛けた。
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