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 何も、珍しいことじゃなかった。その日に限らず、日本古来からある季節の変わり目で、近日、こんな天気なのは当たり前だった。

 あまりに当たり前になりすぎていて、特に意識をしなかった。
 その結果俺はその日、傘を家に忘れてしまった。外はどうやら本降り、どうしようかとバイト先の控え室で途方に暮れる。かれこれ上がって20分。俺は何をしているんだろうか、一体。

「お疲れさんです〜。
 あれ?光也《みつや》さん、雨宿りっすか?」

 真里がバイトを上がってきた。
 名前は“まり”、でなく、“まさと”と読むらし。名前のせいでバイトではいじられ役の後輩だ。

「傘忘れたわ」
「この季節に忘れちゃダメですよ。相合い傘します?身長的に俺が持つ側ですね」
「やだよ野郎となんて!気持ち悪ぃ。てかマリちゃんのクセに身長高ぇんだよ」

 確かに。
 元バスケ部だったらしく、身長が190センチもあるらしい。明らかに、名前負けというやつだ。

「その呼び方やめてくださいよ。
 折り畳み傘とかでも濡れそうですよね、この雨」

 折り畳み傘という単語を真里から聞いて、何の気なく俺はカバンを開いてみた。傘なんて入ってないのは、知っているけど。

「あっ」

 発見した。薄ピンクの、紫陽花柄の折り畳み傘。

「明らかに女モンでしょ、それ」

 その通り。この前別れた彼女の傘。なんでこんなものが入ってるんだ。

 …あぁそうだ。最後のデートの時、バックに入れといてって言われて、そのまま喧嘩して別れたんだ。

「こんな時に助けられるなんて、まったく、いいなぁ」

 そう言って真里は更衣室に入っていく。あまり話を広げても仕方がないので、「帰るわ、じゃぁな」と告げ、振り返らずに控え室を出た。

 昼過ぎの雑踏。時間帯の割に忙しない人々の足取り。だけどそれすらも何故か、傘を差すと時が止まったようにゆっくりと見える。気持ちと天気の気怠さのせいだろうか。

 大通りの斜め横断、電車の中の湿気。その視界ちらつく紫陽花柄の傘。すべてがいつも通り、ゆっくり早く流れて行く。

 彼女との別れは呆気なかった。2年半付き合った結果出た結論は、「貴方は優しすぎて刺激がないのよ」。
 最後に一緒に行ったプラネタリウムでそう言われた。
 そして彼女はご丁寧に、今、他に刺激的な相手が見つかったので別れて欲しいと現状報告までしてくれた。

 ぶっちゃけそこまで彼女を好き、という訳でもなく、後半なんかは日常の一部に成り下がっていた存在に、なんの未練もなくあっさりしたものだった。言ってみれば、マンネリ化の延長線上だろうか。

 だけどいざ一人暮らしに戻ってみて、家に帰ってまだ彼女の食器だとか、痕跡が残っていると、それはそれで家に帰りたくなくなる要因のひとつになる。一人暮らしのなんとも言えないあの空間の虚無にまた戻るのは、思った以上にダメージがあった。

 確かに肩の荷は降りる。だけど軽くなりすぎて少し不安だ。

 あー、考えると頭が痛い。低気圧もあるかな。ここ最近身体の調子がよろしくない。仕方ないから鎮痛剤買って飲んで家で寝よう。こうやって、自分が家に帰る理由を作らないとな。

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