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 しかしなんだか。

 太田が唖然としていたのはどうやら一瞬だった。突然堰を切ったように笑いだし、「ご、ごめん、ちょ、可愛すぎるんすけど…」と腹を抱えたので。

「なにあいつ一回殴っていい?」

 とか言って歩き出せば。
 「あ、こら、真樹!」とナトリが腕を掴んだのも振り払った。

 うぜぇぶっ殺す。

「あまちゃんダメだって、それそいつの…」

 わりと太田に近付き、さぁ殴れるという距離に来たときだった。キツいような、ガッツリした抱擁があって。

「は?」
「俺って案外しつこいんだよ天崎さん」

 頭の上から、何とも言えない痺れた、鼻に抜けるような低い声。そしてすぐにわかった、頭頂部あたりの湿り気や妙な息。
 臭いでも嗅がれているのか、取り敢えず抜けきった感じ。

 なんだと思って見上げれば、太田がめちゃくちゃなんかだらっしのねぇ面して「いい臭い」とか言いやがり、同時にコートの中でまさぐるような手つき。
 抱きついてた手は背中の、ウエスト辺りで組まれ、目が合うと「家来てくれるよね?」と、猛禽類のように鋭い目で口許は笑って言われた。

「嫌だ」

 と言ってぶっ叩こうとすれば、ふと影が見えてその手が止まってしまった。

 前髪が鷲掴まれた。痛くはないが恐怖に息まで止まった。

「ねぇどう?」
「はっ…!」

 言葉が出ていかない。
 遠くで俺を呼ぶ声がする。目の前の太田が笑ったのが見えて思い出すのが、父親の、「口答えしてんじゃねぇよクソガキ」と笑っていた面影だった。

「うるさ…」

 しかし俺には。

「ねぇダメじゃないでしょ?一度でいい」
『一回でいいからてめぇもこんくらいやってみろよクソが』

 コンドームの包装みてぇなあの、なんか高い紅茶の包装みてぇな包装に入った乾燥させた葉っぱと。

「嫌だ、」

『これ打ち込んだらこいつ、どうなんのかね』

「泣いてんの?そんなんも可愛いじゃない」

 伸ばされた指先に。

「なんでぇっ、」

 母さん、どうして。
 目の前に広がる白い肌と痣と、背中。横向いた母さんの笑顔はどうして。
 どうして白眼剥いてんのか。
 なんでこんな傲慢な野郎にこんなことされちまってんだよ。

「めちゃくちゃにしてやるから、どう?天崎さ…」

 不意に太田が振り向いた。
 そして次の瞬間目の前でぶっ倒れた。

「…はぁ?」
「文杜さん!」
「ちょっ、あかんてバカ!」

 文杜ぉ?

 よろけた太田を文杜は、感情なくただただ道端を見るような自然さで眺めていた。そして。

「あっ、」

 そのまま文杜は太田の横っ面に思いっきり蹴りをぶちかました。血が、宙を舞い鈍い音がして。

「ミッナイドクラブヘーブン
サーカスが観たいらーしぃ♪」

 しゃがんで太田の顔面を見たかと思いきや、文杜は唄いながらにやっと笑い、「曲乗りが、俺の仕事、キャッフード、ぶちまけーたきぃ、ぶん」句読点と共に、髪の毛を掴んで思いっきりぶん殴っていた。

「ちょっ、文杜、文杜ぉ!」
「デッドマンデイーズ♪」

 止めようとしない文杜の腕にすがり付けば、漸く我に帰ったようにはっと太田を殴り止め、俺を見る目は綺麗な漆黒。でも切れ長で蛇みたい。怖いけどここは睨み返して歯を食い縛り、一発文杜をぶっ叩いた。

 太田を掴んでない方の、血塗れになった手で文杜は俺がぶっ叩いた左頬を唖然として触れていた。
 その表情があまりに単純すぎて泣きたくなって、思わず俯いて、でもやり場がなくて、太田を掴んでいる手に触れればあっさり解放。自分でも情けないほど自分のその手が震えていた。

「…真樹?」
「ん、」

 そして空いた手が、涙を拭ってきて。
 なんだよバカたれと思って睨めば、なんだか悲しそうで。久しぶりに見た、こんな文杜の顔。

「…怖かったね」
「…違う、そう、けど、」
「うん、ごめん」

 声色は優しくても、表情は優しくても。
 どうして君ってそうやって悲しいの。思わずぶっ叩いた頬に手を添えた。やっぱ震えちゃう。

 今度はちゃんと優しく、文杜はそんな俺のその手を包んで握ってくれた。

「…ダメだねぇ。俺は君をただただ、世界とか、いやそんな広くなくても、とにかく無責任や不条理から守りたいだけなのに」
「文杜、あの、」
「俺には出来ない。越えられないんだこの壁。だって俺君以外に興味がないんだもん、わかんねぇよ」
「…どうして」
「…内緒。わかんない」
「でも文杜、俺、文杜のこと嫌いにはならないから。ただやめて。暴力は、嫌だ」
「ごめんって」

 どうしてこんなに気持ちは伝わらない。俺はどうしてこんなに打たれ弱い。なんでこんなとき文杜は、ぎこちなく笑うの。理解出来ない。どうして、こんなにヘタクソなの。

「う゛っ」

 ぶっ倒れていた太田が起き上がろうとして、影が落ちた。見上げればげんちゃんが嘲笑で手を差しのべ「いい様だな」と吐き捨てた。

「立てる?」
「ぉくだぁ…!」
「救急車呼んで帰る?」

 げんちゃんの手をただ睨んでいる。それを見て「はぁ、めんどくせえなぁ、」と、後ろから太田の両脇に腕を突っ込み持ち上げ、立たせたのはハゲだった。

 一瞬の出来事に太田唖然。状況把握してから「な、はぁ!?」と太田が声を発すれば「うるせぇよ!」と、太田はハゲに後頭部を叩かれていた。

「ここは動物園かバカ共。お前ら3歳児より手が掛かるんだよ!お受験してこい、このハゲ!」
「お前がっ、げほっ、お前が言うの!?」
「言い直すなそんな無駄なとこで体力使いやがってこのクソチビ!大体お前が全部悪い!早くギター!売るぞコラ!
 そこのアサシンヤンキー、てめぇも早くしろんなチビ相手にほんわかしてんじゃねぇよ!売るぞベース!」
「なっ…!」
「あ忘れてたよ。ありがとーナトリー」
「げんちゃん!飲み行くぞ飲み!場所!」
「えぇぇ…じゃぁ“おさと”」
「電話今すぐ!」
「あそこはだいじょーぶだよ俺たちなら入れてくれるから」
「じゃ早く!てかお前とお前とお前!早く立って!」

 俺、文杜、太田の順に指差してハゲは言い、そしてスタスタ一人で歩き始めてしまった。

「…あにあれ」

 どうやら喋りにくいらしい太田。
 まぁ、ですよね。

「仕方ないねぇ、さ、立てるかい真樹」
「んー」

 取り敢えず伸ばされた文杜の手を借りて立ち、それから文杜も立ち上がり、ハゲの後を追う。もちろんムカついたのでハゲには飛び膝蹴りした。ハゲは転びかけていた。

 へ、バーカ。

 後ろではげんちゃんと太田が何かを話してそれからげんちゃんだけが歩いてきた。
 ギターはすべてげんちゃんが持ってきてくれた。

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